[コラム] 「黄昏迫るころ夕陽は美し#23 どんな本を読んでいますか」:大野恒太郎弁護士(顧問)

どんな本を読んでいますか

―私の読書法―

 読書は、山歩きや音楽鑑賞と並ぶ私の生涯の趣味である。これまで常に本に囲まれた生活をしてきた。読書が子供のころから今日に至るまで私の人生をどれだけ豊かなものにしてくれたか計り知れない。

 今回は、そうした読書についていくつかの切り口からお話ししたい。

 

1 読書ノート

 私の読書法として、まず述べなければならない点は、本を読めば必ず読書ノートを作成することである。これは20年余り前に始めたもので、これまで書いたノートは800冊分位になる。

 読書感想文と言うと、小学校や中学校で宿題として出されることが多く、読者の多くはあまり良い印象を持っていないのではないかと思われる。私もかつてそうだった。

 ところが、乱読を続けていると、どの本を読んだのか自分でも忘れてしまい、買い込んだ本を読み進んでいるうちに、既に読んだことがあることに気付くようなケースが相次いだ。そうした事態を防ぎたいというのが、読書ノートを作成するようになった直接の動機である。

 

 私の読書ノートは、原則として、A4版1枚に収まるように、冒頭に、書名、著者名、出版社名と、その本の属する範疇やキーワードを記載した上、前半部に内容概要、後半部に「感想等」、最後に読了日を記すという型を採っている。「感想等」は、読後感や書評のようなものから、どのような機会にこれを読んだのかとか、その本に関連する私自身の経験に至るまでかなり自由な内容を含む。ノートは、パソコンに入力してデータとして管理するとともに、印刷した紙をファイルに書名のアイウエオ順に綴じて保管することとしており、既に厚手のファイル2冊が満杯となっている。

 

灰色の表紙のパイプファイル2冊が机の上に置かれている

読書ノートのファイル

 

 このような読書ノートを作成することには、非常な手間と時間を要する。実際、本を読むよりも、ノートの作成により長い時間を要するようなケースがままある。そのため、ノート作成には、他の本を読むのに充てることができたはずの時間を削らなければならないというジレンマを伴う。

 私は、そうした二律背反を認識しながらも、読書ノートを書くという習慣を今後とも堅持しようと思っている。それは、もちろんここまで続けてきたという慣性や意地によるところもあるが、何よりも、ノートを作成することに大きなメリットがあると考えるからである。

 すなわち、第一に、読書ノートに本の概要を書くため、その内容をある程度正確に理解することになる点である。本を読みっぱなしにしていたのでは、本の中身を頭の中で整理することのないまま終わってしまうことが多い。その点、ノートを書くためには、より深い読み方が求められ、内容を自分なりに咀嚼する必要が生じる。そこで、読書中メモを取ったり、付箋を付けたりするなどかなり面倒な作業が求められるが、それでも本を読んでも中身を十分に理解しないままに終わってしまうことよりも自分にとって有益であると思うのである。

 メリットの第二は、一旦読書ノートを作成すれば、その後、必要な時にこれを参照すれば、直ちにその本の内容や読書体験が蘇ってくることである。現に本稿も、読書ノートのいくつかのページを読み返しながら書いている。人間の記憶力に限りがある中で、読書経験が時の経過とともに失われてしまうのは、いかにも惜しい。これは日記の作成にも通じることであろう。

 そのようなことで、私は読書ノートを書き続けている。

 もっとも、本の内容によっては、わざわざ苦労してその内容を要約し、「感想等」を書いてA4判を満たす価値がないように思われるものもある。そうした本の場合、「感想等」のところで、「このような本を読むことに貴重な時間を浪費すべきではなかった。」などと悪態を書きつけて憂さを晴らしているのが現状である。しかし、今後はその辺りの見切りをつけ、思い切って簡素化する必要があると自覚している。

 

 なお、英文で書かれた本は、英語に対する苦手意識(コラム#6「英語コンプレックス」参照)を少しでも軽減するため、基本的には原文で読むこととしている。

 

2 読書と仕事

 仕事を進めていく上で読書が欠かせないことは言うまでもない。そうした関係の本としては、在官当時は司法ないし法律関係の書籍が中心であったが、退官後は、より広く経済関係の書籍なども読むようにしている。

 

 現職時代に必ず目を通していたのは、検察に批判的な内容の書物である。同僚の中にはそのような本を買って売上に貢献するのは片腹痛いとか、到底同意できない内容の本を読むことでわざわざ不愉快な思いをしたくないなどと言う者もいたが、それは狭い料簡と言うべきであろう。批判の中には耳を傾けるべき正論もあろうし、当方と考え方を異にする場合や誤解に基づく批判であっても、責任ある立場にある者としてはそれに対して説得力のある反論ができなければならない。そのためには検察批判本には必ず目を通すこととし、その場合、読書ノートにも量的質的に通例よりも格段に充実した記載を行うことが多かった。

 

 検察の先輩等が書いた本には、現職時代以来様々な教訓を得、勇気づけられることが多い。例えば、堀田力「壁を破って進め-私記ロッキード事件-」は、同事件における米国嘱託尋問等で獅子奮迅の活躍をした著者が、検察の心意気や当時の生々しい経験を語ったもので、後に続く者を鼓舞する力に満ちている(なお、コラム#22「ロッキード事件50年」参照)。

 また、村山治「特捜権力vs.金融権力」「田中角栄を逮捕した男-吉永祐介と特捜検察『栄光』の裏側-」等は、検察の事情に通じた記者が綿密な取材に基づいて記したものである。著者の見解には同意できない点もあるが、その時代に法務検察に身を置いていた私ですら知らなかった情報も含まれており、近年における検察活動を知る上で参考になる。

 

 これに対し、検察とは別の領域における法律家の活動に関しては、まず、大川真郎「裁判に尊厳を懸ける-勇気ある人々の軌跡―」「よみがえる美しい島-産廃不法投棄とたたかった豊島の50年-」等を挙げたい。私は司法制度改革を通じて著者の知遇を得たが、人権や正義のため、熱意と信念、そして知恵と工夫によって困難を乗り越えていく弁護士の活動が抑えた筆致で描かれており、法律家のやりがいや社会的な使命に関する著者のメッセージがしっかりと伝わってくる。

 

 法律関係の書籍を必要に迫られて読むことが多い中で、実用を離れて大きく視野を広げられることがある。例えば、内田貴「法学の誕生-近代日本にとって『法』とは何であったか-」「高校生のための法学入門-法学とはどんな学問なのかー」は、我が国が明治期西洋の法制度を導入する過程を分析し、現実社会の事象を抽象化して権利義務に置き換えるという法学あるいは法的思考の重要性を説くものである。私は、齢70歳を超えてこれらを読むことによってようやく法学の意義を正しく理解することができたような気がする。

 瀧井一博「文明史の中の明治憲法-この国のかたちと西洋体験-」も、明治憲法が当時の激動する内外の情勢の中で成立した経緯を豊富なエピソードを交えて明らかにしたもので、読み物として実に興味深かった。

 さらに、三谷太一郎「政治制度としての陪審制-近代日本の司法権と政治-」を読むと、戦前の陪審制導入の際の議論が先年の裁判員制度導入の際のものとほぼ重なり合っていることに驚く(コラム#2「裁判員の人数」#9「裁判員制度15年」参照)。

 

 私は退官後、会社や財団の仕事の関係で読まなければならない本の範囲も広がった。もっとも、長年身を置いてきたことである程度の土地勘を有する司法や法律関係の書籍とは異なり、経済関係の本などはずぶの素人として読むことになるため、読書ノートも勢いサブノートのように数ページにもわたる詳しいものとなるケースが稀ではない。それでも、一旦自分の言葉で内容を整理するとその限度で理解が進み、ここでも読書の成果を確実に刈り取り、後日役立つようにする上で、読書ノートの効用は明らかである。

 

3 読書と旅

 視野を広げる上で、読書と旅、人との交際、この3つが特に重要であるなどと言われることがある。私の場合、読書はしばしば旅と分かち難く結びついている。

 それは、読書に触発されて旅を行う場合と、旅に触発されて読書に至る場合の双方を含む。

 

 前者については、James Hilton ”Lost Horizon”(邦訳題名「失われた地平線」)を読んで中国四川省や雲南省奥地へ向かった旅がその典型である(コラム#14「シャングリラ探しの旅」参照)。また、少年時代からの愛読書であるConan Doyle“The Lost World” (邦訳題名「失われた世界」)の舞台を見るためベネズエラ奥地のギアナ高地を探訪したことなども、これに含まれる。

 さらに、私を含め、深田久弥「日本百名山」をいわばバイブルとして百名山を踏破した人達も、この本に触発されて旅に向かった者と言えるであろう(コラム#3「日本百名山」参照)。

 

 後者は、旅によってその地域に対する関心を抱き、書物をひもとくもので、枚挙にいとまがない。その中から1冊を採り上げると、中国の新彊からパキスタンに抜ける旅を終えた後(前記#14参照)、中央アジアをめぐる歴史に興味を抱き、Peter Hopkirk “The Great Game -The Struggle for Empire in Central Asia-” (邦訳題名「ザ・グレート・ゲーム-内陸アジアをめぐる英露のスパイ合戦-」)を読んだ。同書は、19世紀以降帝国主義的野望を有する英露両国が当時地理も明らかではなかった中央アジアに探検家やスパイ等を繰り出して、生命の危険を冒しながら現地の藩王や部族と様々な交渉を繰り広げたことなどを内容とする。最近ウズベキスタンに旅行した際にも同書を携行して読み返した。

 旅行先でその国あるいは地域の自然・社会・歴史・文化に関する書籍を買い求め、帰った後それらを読み進めることは、旅の感興を一層高める。そこで、私は、旅の記念として写真集等の書籍を買い求めることとしている。本棚の一角にはそのようにして収集した旅先の写真集等を並べ、時々それを引っ張り出して読んでは旅の思い出を蘇らせている。

 そして、近年は、旅にその土地に関連した書物を持参することとしている。旅行先に関連した内容であれば、一段と好奇心が掻き立てられ、本の記載と自分の見聞とを対比して、納得したり、逆に異を唱えたりするのも楽しい。

 

 それでは、異国からの旅人の目に日本はどのように映るのであろうか。そうした観点から面白いのが、イザベラ・バード「日本奥地紀行」である。本書は1878年に英国の女性旅行家が通訳兼案内人の日本人の若者一人とともに東京から東北地方・北海道を踏破した際の旅行記である。現代の私達の視点はむしろ著者に近いこともあり、彼女の目を通して見た当時の東北の実情は誠に興味深い。

 

 なお、Jon Krakauer “Into the Wild” (邦訳題名「荒野へ」)は、1992年アラスカの奥地で死亡した一人の若者の足跡を辿るノンフィクションである。自然への憧れや自分の限界を試したいという若者ならではの一途な思いが伝わり、私の心情には特に訴えるものがあった。

 

4 読書と歴史

 読書が読者に時間や空間を超えた体験をもたらしてくれるという点からすれば、歴史書や歴史に題材を求めた小説は、私にとって興味が尽きない。

 

 私達が歴史から学ぶべきことは、何よりも、先の大戦のような惨禍を繰り返さないことであろう。例えば、波多野澄雄「日本終戦史1944-1945 -和平工作から昭和天皇の『聖断』まで-」半藤一利「日本のいちばん長い日」等を読むならば、一旦始めた戦争を終わらせることがいかに困難であるかを痛感する。

 しばしば引用される戸部良一等「失敗の本質-日本軍の組織論研究-」は、先の大戦における諸作戦の失敗を組織論の角度から捉えるものであり、平素の組織運営等において参考となる点を多々含んでいるが、開戦の可否という政略上の決定に関わるものではない。

 この点について、例えば、猪瀬直樹「昭和16年夏の敗戦」は、日本の対米戦争が当時の客観的な見方に立っても勝ち目のないものであったことを明らかにしている。そして、加藤陽子「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」は、実証的な議論を展開しているものの、満州国や朝鮮の植民地支配の問題をどのように解決すべきであったのかについては論じていない。

 戦争に向けて暴走した軍部や、時流に迎合した政治家等を非難することは容易であっても、日本はどこで引き返すべきであったのか、未だに肚に落ちる議論に接していないように思う。

 

 ところで、歴史については、近年発見された新しい史料によって従来の理解が改められることが少なくない。最近読んだ本の中から例を挙げるならば、NHKスペシャル取材班「新幕末史-グローバル・ヒストリーで読み解く列強vs日本-」が面白かった。これは、NHK取材班が学者の助言を得ながら手分けをして諸外国の図書館等に残る当時の資料を渉猟して幕末史の隠された一面を明らかにしたものである。これまで専ら日本国内における諸勢力のせめぎ合いという観点から見てきた幕末史が、実は欧米列強の世界戦略に大きく影響されていたことに目を開かされた。

 

 ノンフィクションから1冊を挙げると、Tom Reiss “The Black Count” (邦訳題名「ナポレオンに背いた『黒い将軍』」)は、2013年米ピュリツァー賞受賞作で、「モンテクリスト伯」「三銃士」等で名高い作家アレクサンドル・デュマの父で同名の人物の波乱の生涯を描いたものである。彼は18世紀フランスの植民地であったハイチにおいて仏の侯爵家長男と黒人奴隷の間に生まれ、その後フランスに渡り、将軍に昇進するが、ナポレオンと反目し、不遇のうちにその生涯を閉じる。本書に出会わなければ、植民地時代のハイチやフランス革命前後における人種問題等について知ることもなかったであろうと思われ、読書が視野を広げてくれることを改めて実感する。

 

 一方、歴史小説は、作家の創作を加味することによって、歴史上の事件や人物を生き生きと蘇らせるところにその真骨頂がある。司馬遼太郎吉村昭の一連の作品などはその好例である。ここで、司馬遼太郎「最後の将軍-徳川慶喜-」を例にとると、同書は、慶喜が明治維新に際して不可逆の歴史の流れを洞察して果断な行動をとったとの評価をしている。慶喜は、鳥羽伏見の戦い以降戦おうとしなかったことから、多くの人に胆力に欠けて節操がない人物であると見られてきた。しかし、戦えば勝てたかもしれない慶喜が外聞や感情に引きずられることなく謹慎蟄居の道を選んだことは、当時の弱肉強食の国際環境の中で日本が独立を保ち、驚異的なスピードで近代的な国家体制を作り上げていくことに道を開くことになった。このような観点から慶喜を再評価した著者はやはり卓抜した史観の持ち主であったように思う。

 最近読んだ直木賞受賞作の今村翔吾「塞王の楯」は関ヶ原の戦いの前哨戦となった大津城の攻防戦をテーマとしたものである。本書がユニークなのは、歴史を大名や武士の立場からではなく、石工集団や鉄砲職人の視点から描いた点にある。そして、城壁構築や鉄砲製造に関する叙述は詳細を極め、城主を含む関係者の人物像も見事に造形されている。まだ若い著者の着眼点、調査力と筆力に舌を巻く思いがした。

 

 海外の作品では、例えば、シュテファン・ツワイク「ジョゼフ・フーシェーある政治的人間の肖像―」「マリー・アントワネット-平凡人の面影-」が傑作であると思う。著者が通俗的見解から離れ透徹した視点から活写した人物像は説得力に富む。

 

 歴史を更に人類史にまで拡大したものとしては、ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄-1万3000年にわたる人類史の謎-」ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史-文明の構造と人類の幸福-」等がある。これらは、個々の人間の営みを超え、地球的な視点で人類の来し方を眺めるものであるが、それに加え、後者は、歴史を通じて人間は幸福になっているのかと読者に問い、さらに、テクノロジーの発展によって生物学的な限界を超える力を獲得しつつある人類が超サピエンスとしてどこに進んでいくのかという将来に向けた問をも投げかける。

 

5 読書と小説

 読書の醍醐味が、自分が直接経験できないことについて、本を通じて体験できることにあるとすれば、小説はその最たるものであろう。主人公に対する共感を持つことができれば、その効果は一層大きい。

 読書の楽しさを形容するためしばしば「巻を措く能わざる」(unputdownable)という表現が用いられる。私も面白い本を読んでいると、それに引き込まれてしまって、気付かぬうちに電車を乗り越したり、気付くと深夜を大きく回っていたりすることがある。これは、読書が私達を現実の世界から引き離すからであり、一種のカタルシス的な効果を有する。作家はペン一本で多くの人の心を動かすのであるから、やはり特別な力量があるように思う。

 もっとも、作品に対する感じ方は人それぞれであるから、多くの人に訴えかけるものであっても自分の心には響かない場合もあれば、その逆もある。数多の文学賞がある中、近年その存在感を高めている本屋大賞は、書店員が選ぶもので、それだけ一般読者の嗜好を反映したものとされている。私はこれまで大方の本屋大賞受賞作を読んでおり、そのいずれも面白く、外れたと感じたことがないことからすれば、私の感性は世間の最大公約数的なものに近いのかもしれない。

 

 小説は、あらゆるジャンルのものを楽しんでいる。

 古典から挙げるならば、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー「罪と罰」は言わずと知れた犯罪小説の古典である。長大・晦渋な印象のあるドストエフスキーであるが、亀山郁夫氏による「新訳」は極めて読みやすかった。本書の主題である主人公の心理の動きを別にすると、検察官的な視点からは、主人公に対する予審判事の尋問が極めて興味深く、合理的で良く考え抜かれていたように思われる。

 大河小説として、Min Jin Lee “Pachinko” (邦訳題名「パチンコ」)は、在日韓国人4代にわたる苦難の歴史を描いた小説で、近年米国でベストセラーとなった。この小説を読み、在日の家族の立場に身を置くことによって、これまで専ら日本人の立場から見ていたのとは全く異なる世界が広がっていることに気付き、大いに心を揺さぶられた。これは、歴史書や学術書を読んでも得られない小説ならではの体験であると思う。

 近未来ものとして、ノーベル文学賞受賞者の手になるKazuo Ishiguro “Never Let Me Go” (邦訳題名「私を離さないで」)は、臓器移植のために作られたクローン人間を主人公とする小説である。奇抜で超現実的な主題であるにもかかわらず、巧みな話の展開により知らず知らずのうちに主人公に感情移入してしまい、科学と人間性について深く考えさせられた。

 サスペンス小説、スリラー、推理小説なども、気分転換の観点から好んで読む。国内の作家であれば、古くは松本清張等、新しいところでは柚木裕子等の作品を楽しんでいる。海外の作家であれば、法律家を主人公とすることが多いJohn Grishamの作品や、国際的サスペンスを中心とするFrederic ForsythKen Follettの小説はあらかた読んだ。

 

 一番最近に読んだ小説は有吉佐和子「恍惚の人」である。本書は、認知症に罹った義父の介護に当る嫁の視点から老いや死を採り上げたもので、1973年に出版されるや、空前のベストセラーになった。私もこの本に出てくる義父に近い年齢となり、本書を読んで、著者のユーモアも交えた自然な語り口に魅了されるとともに、人生を如何に終えるかが容易ならざる問題であることを痛感した。小説は、このように社会等の問題を提起することもある。

 

6 座右の書

 最後に、私の座右の書として二つ挙げたい。

 一つは、ロマン・ロラン「ベートーヴェンの生涯」である。それは、私がベートーヴェンの音楽の信奉者であることに由来するが、中学3年の時に買った岩波文庫版を開くと、「彼は悩み戦っている人々の最大最善の友である」「悩みをつき抜けて歓喜に到れ!」などの記載には、赤いボールペンで次のページにも跡が残るほど強く傍線が引かれており、今から60年も前の私の感激が刻印されている。

 もう一つは、「三国志演義」である。これは、私の少年時代からの愛読書で、吉川英治の手になるものに始まり、立間祥介訳による中国古典文学大系版や小川環樹訳の岩波文庫版等をそれこそ暗記するまで読み込んできた。諸葛亮や関羽、張飛のような英雄豪傑は私にとって終生変わらないヒーローであり、難局に直面した際などには、心の中で「次は関羽を繰り出そう」などと想像して自らを励ましてきた。それだけに先年中国四川省の山に行った帰途、成都で諸葛亮を祀る武侯祠を訪ねた時には、長年の夢が叶った気がした。

 

 近年活字離れが叫ばれて久しく、書店の数も目に見えて減少している。読書は動画等に比して「タイパ」が良くないからなのか、孫達もマンガはともかく本にあまり興味を示さない。

 しかし、私のように活字文化の中で生きてきた人間にとっては、読書という豊穣な世界に別れを告げることなど思いもよらない。そうであればこそ、買い物に出かけても、衣類や装飾品、電気製品等には目もくれず、書店を訪ねては、面白そうな本を物色しているのである。

 

 

著者等

顧問/コンサルタント

大野 恒太郎 Kotaro Ohno

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