[コラム] 「黄昏迫るころ夕陽は美し#03 日本百名山」:大野恒太郎弁護士(顧問)

日本百名山

―そして二百名山・三百名山―

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霞沢岳から望む新雪の穂高岳
 

日本百名山

 少年時代から山を歩いているので、山歴は既に六十年を超える。近年つくづく感じることは、山を歩く人に百名山を志向する者が多いことである。
 
 日本百名山は、作家深田久弥が1964年に山の品格、歴史、個性を基準に自ら登った山の中から選定したもので、当初雑誌に連載され、その後は単行本等として版を重ねている。山好きの人達は、自分はそのうちの何座に登ったとか、次はどこを目指すなど、百名山について語ることが多く、そうした中で深田の著書は半ばバイブルのような扱いを受けている。また、百名山をテーマにした番組や書籍も少なくない。
 
 富士山のように誰もが認める山は別として、数多ある日本の山々の中から名山を百選ぶという企ては、およそ意見が一致することなど期待しえないように思われる。そもそも何をもって名山とするかという基準について様々な意見があり得る上、それぞれの山をそうした基準に照らしてどう評価するのかも個々人の主観によって大きく左右されるからである。
 それにもかかわらず、深田という一私人による選定が、社会的にここまで受容されて定着したことには驚くほかない。それは、そのリストが大方の了解を得るに足りるだけの客観性妥当性を備えているからであろう。

 

私の百名山経験

 私も5歳の時両親に連れられて登った霧ヶ峰に始まり61歳になって妻と登った利尻岳まで実に56年をかけて百名山を完登した。
 
 百名山のことを聞き知ったのは社会人になってからであり、深田の本を購入したのは、40歳を過ぎたころであった。その時点で既に関東や中部地方を中心に50座余りを登っていたが、百名山は登山者で溢れかえって俗化しているような印象を抱いており、百名山完登を目指すことに対してはいかにもブームに流されるような居心地の悪さも感じていたので、これを全部登ろうというような気持ちにはなれなかった。
 
 ところが、その後も山歩きを続けるうち、自然に百名山の登頂数も増えていった。そして、登った山には、深田本の目次にチェックを入れ、登り残した山が少なくなっていくに伴い、それを埋めることが何やら宿題であるような気分になってきたのである。また、山の話になると必ずと言ってよいほど百名山の話題が出ることから、自他ともに山好きをもって任じながら、百名山を完登していないというのも中途半端であり、敢えて登ろうとしない理由を述べるのも、天邪鬼なことであるように思われてきた。
 
 そして、私が認識を決定的に改めることとなったのは、富士山である。
 私が初めて富士山に登ったのは、50歳になってからのことであった。元々富士山に対しては、世界に誇る名山であり、遠くから仰ぎ見る山ではあっても、人が列をなしているような観光地であって、登る山ではないというような偏見を持っていた。
 ところが、既に山小屋も閉鎖された秋の一日、ふと思い立って、妻と吉田口から日帰りで登ったところ、快晴に恵まれたこともあって実に素晴らしかったのである。何よりも周囲の眺望が比較を絶しており、これまで登ってきた山が日本アルプスを含めすべてはるか下方に見下ろされたことには本当に驚いた。これは日本では群を抜いて高い富士山の頂ならではの経験である。また、お鉢巡りと称して火口を一周したが、火口奥深くになお雪がこびりつくように残っていたことも、これまで外から富士山を眺めてきた自分にとっては新鮮な景観であった。
 この時の印象があまりにも鮮烈であったため、その2週間後、今度は富士宮口から富士山頂を往復した。その後も、須走口や御殿場口のルートを登降している。とりわけ「大砂走り」と呼ばれる御殿場ルートの下りは、一歩踏み出すと足元の砂礫ごと数メートルを下るので、膝に負担なく飛ぶように高速で下山することができるという他では経験したことのない痛快なものだった。
 こうして私は、これまで富士山を避けてきた自分がいかに独善的であったかを思い知らされ、それに伴い、百名山に対して長く有していたある種のわだかまりも消えたのである。
 
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上空から眺めた富士山
 
 そのような経緯で、私としても、遅ればせながら、百名山を完登しようと思うようになった。幸い妻も山歩きを好み、ペーパードライバーである私に代わって車の運転を引き受けてくれたので、それまで馴染みのなかった北海道、四国、九州等の山に向かうこととなった。
 そして、実際に百名山を登ってみると、いずれも立派な山であり、素晴らしい思い出を作ることができたと心から思う。
 
 もとより百名山の具体的選択については、個人的に多少の異論もある。しかし、深田自身も、自分の選択を絶対視してはおらず、著書の後書きにおいて「今度再版の機会があったら若干の山の差し替えをするつもりである」と述べている。山登り愛好者がそれぞれの経験に照らし、自分であれば、深田百名山のどれを外し、その代わりにどの山を入れるのかを考えるというのも、楽しい頭の体操であり、百名山はそうした機会を提供するものであるとも言えるであろう。

 

百名山の光と影

 百名山は、何よりも、多くの人達を山に誘い、日本各地の多様な山々を知る手がかりを提供したという点において、偉大な功績がある。私自身、深田の百名山に導かれて登った山があることは既に記したとおりである。
 
 深田の文章は、それぞれの山につき2000字程度の簡潔なものであるが、山に対する深い思いに裏打ちされ、自分が登った時の思い出をベースにしながら、その山の自然や文化、歴史等にも及んでいる。そのように山歩きという営為の持つ奥深さについて改めて認識させられるというのも、深田百名山の効用であろう。
 
 しかし、百名山ブームは、負の側面も伴う。
 一つは、百名山に全国からの登山者が集中してあまりにも混雑するようになったことである。百名山の中には人気(ひとけ)がないことを理由に選定された山も含まれているにもかかわらず、登山者が殺到しているような現在の状況がそうした山の雰囲気を著しく損なっていることは否定し難い。
 また、多くの人が百名山の完登を目的にすると、その需要を当て込んだ商業登山が繁盛し、ツアー会社がチャーターしたバスを使ってできるだけ短時間で効率良く頂上に達するような登山のやり方がまかり通るようになる。これは山をじっくりと味わいたい者からすれば、いささか邪道であると思われてならない。
 
 例えば、百名山の中に栃木・群馬県境に位置する皇海山という山がある。私は、途中庚申山の避難小屋に一泊した後、険しい岩尾根を上下した末にようやく皇海山本体の登りにとりかかった。ところが、それまで行き会う登山者がいなかったにもかかわらず、山頂直前に至るとにわかに多数の中高年登山者が現れたことには驚いた。聞けば、鞍部直下の林道までチャーターしたマイクロバスを乗り入れ、効率良く百名山の数稼ぎをするのだという。しかし、そうした登り方では、深田がこの山を百名山に選んだ山深さや人気(ひとけ)のなさを味わうことなど到底できないであろう。
 上越国境の平が岳も同様である。深田は当時道のない遥かな山であることを理由にこの山を百名山に選んだと述べているのであるから、そこに近年、山深く通じた林道の終点まで麓の宿の車で運ばれた中高年の集団がゾロゾロと歩いているのを見れば、目を白黒させるに違いない。
 
 また、頂上に人が溢れている百名山でも、最短コースばかりが歩かれ、それ以外の道は廃道になっている場合も少なくない。東京に近い大菩薩の山域にはこれまで足繁く通っているが、昔歩いた長峰の尾根道などは今では跡形もなくなっているのである。
 

二百名山と三百名山

 さて、百名山が空前のブームを呼んだことから、これに続くものとして、二百名山、三百名山が相次いで指定され、また、各地にその県の名を冠した百名山が誕生した。
 
 時系列的には、三百名山の方が先に1978年に選定され、その後の1984年に二百名山が選ばれた。三百名山は、日本山岳会が各地域に一定数の枠を割り当て、各地域の委員会でその枠を満たす山を選ぶという手法を採用した由であり、深田百名山はすべてその中に含まれている。これに対し、二百名山は、深田ファンの団体である深田クラブが、三百名山を絞り込むような形で選定したものであり、三百名山に入っていなかった奥只見の荒沢岳が加えられているため、両者を重ね合わせると合計三百一座がリストアップされたことになる。
 
 これらの名山の選定の当否については、百名山にも増して様々な意見があり得ると思われるが、いずれもそれなりの知名度を獲得し、登山関係の資料や頂上の標柱等には誇らしく「日本三百名山××山」などと表示されている。
 
 私が二百名山や三百名山に関心を持つようになったのは、コロナ禍により自宅に蟄居していた期間に、NHKのBSで再放送されていたグレートトラバースという番組によるところが大きい。
 ご覧になった方も多いと思われるが、この番組は、アドベンチャーレーサーの田中陽希氏が2014年の本編においては百名山を、2015年のグレートトラバース2という続編においては二百名山のうち百名山に含まれていない山を、そして、最終編のグレートトラバース3においては三百名山のすべての山を、一切交通手段を利用せず、すべて徒歩やカヤックという自分の力で回るという壮大なものであった。
 
 そして、グレートトラバース3は、2018年1月に屋久島宮之浦岳に登ってから、2021年8月に最後の利尻島利尻富士まで、三百名山(上述の荒沢岳も含まれているので正確には合計301山)を登りきるのに、実に3年7か月余りの年月を要しているのである。田中氏は、途中大きな地震に遭遇し、手指を骨折し、更にはコロナ禍による移動制限によって停滞を余儀なくされるなどの苦労を重ね、ようやくその目的を達成した。
 私がこの番組を見始めた時点において、田中氏は東北地方において停滞中であった。田中氏の愛すべき人柄もあり、気付いた時には、多くの視聴者の方と共に、田中氏の三百名山踏破に向けた挑戦に声援を送るようになっていたのである。
 
 そればかりか、この番組に触発され、自分もこれらの山に登ってみたいという気持ちが沸き起こってきたのである。もとより、若いプロの冒険家で強靭な体力を備えた田中氏と、老いて膝や腰に不安材料を抱える自分とではあまりに事情が異なる。また、田中氏が一切の交通機関を使わないのに対し、航空機、鉄道、バスはもとより、妻も年齢を理由に自動車の運転を既にやめていたことから、タクシーも活用し、田中氏の足跡を辿って、まだ見ぬ山々を訪ねることにした。
 百名山については、こうした登り方に対して「数稼ぎ」であるなどとして批判的であったにもかかわらず、いざ自分が高齢に達し、山に登れる期間も残り少なくなってくると、山登りのスタイルにこだわるよりも、新しい山に少しでも多く登ってみたいという気持ちの方が強くなったのである。たとえ交通機関をフルに活用するような登り方であっても、山歩きには毎回何らかの発見やドラマがあり、それが人生を豊かにしてくれるのである。
 また、二百名山や三百名山の山々は、百名山に比べると、格段に人の数が少なく、百名山につきものの難点がないこともありがたい。
 
 そのようなことで、コロナ禍の影響でまだ登山者の数が少なかったころから、妻とともに、近畿、中国、四国、九州の山々などに足を延ばしている。これらの山にはそれまで山名すら知らず、二百名山、三百名山のリストに入っていなければ、一生行くことはなかったであろう山も含まれている。したがって、二百名山、三百名山の選定によってそうした山を楽しむ契機が得られたことを率直にありがたく思う。これも遡れば、百名山の波及効果と言えるのかもしれない。
 
 三百名山もその相当数はそれと意識しないまま既に登っていたので、これまでにその中で登頂した山の数を合計すると概ね230座に達する。もっとも、三百名山の中には今でも登山道すらない山も含まれているため、高齢に達した私に全山登頂は到底望むべくもない。
 また、三百名山に含まれない山の中にも、私にとっては三百名山に匹敵しあるいは一層素晴らしく思い出に残る山々が多数ある。
 今後も身体の動く限り楽しみながら山歩きを続けたいと願っている。

 

著者等

顧問/コンサルタント

大野 恒太郎 Kotaro Ohno

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