[コラム] 「黄昏迫るころ夕陽は美し#01 ある取調べの思い出」:大野恒太郎弁護士(顧問)

本年当事務所の顧問に就任した大野恒太郎弁護士(元検事総長)が公私にわたる様々なエッセーをコラム欄に連載します。

 

ある取調べの思い出

―黄昏迫るころ夕陽は美し―

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私の机の上には「黄昏迫るころ夕陽は美し」と記された湯呑が置かれている。これは、私が東京地検特捜部に所属していた際に取調べに当たったT氏の手作りのものだ。T氏が所得税法違反の罪により実刑判決を受け、服役する直前に、私のもとに送ってきたものである。

 

T氏は、フォーブスの世界長者番付にも名を連ねた実業家であり、書画文筆や陶芸をたしなむ文化人としても知られていた。T氏の事件は、バブル最盛期に仕手筋とも連携して株取引を反復し、巨額の所得を得ていながら、他人名義を用いることなどにより数十億円に上る所得税を脱税したというものであった。

 

当時、私は30歳代後半、T氏は70歳余りで、年齢から言えば父と子のような関係であった。T氏の取調べは、逮捕前から始まったが、貫禄の差というのであろう、私が疑問点を問いただそうとしても、T氏は軽くそれをいなすばかりで、まともな答えは戻ってこなかった。そのころT氏が記載した日記が、後に押収されているが、そこには「五百円 弁当の味 青検事」という川柳が記されていた。それは、取調べの際に食べた仕出し弁当になぞらえ、私のことを揶揄するものだ。おそらくT氏の目には取調べに当たった私がいかにも肩に力が入っているように見えたのだと思う。

 
そのようなことで、任意の取調べでは十分に事実関係の解明を行うことができなかったため、T氏を逮捕し、その後は、小菅の東京拘置所においてT氏の取調べを続けることとなった。そもそもT氏がその所得を隠ぺいした株取引の実務について私には何の知識もない。しかも、これまで輝かしい実績を上げてきたT氏のプライドや私とT氏との人生経験の差からすれば、追及的な取調べを行っても、いたずらにT氏を反発硬化させる結果を招き、真相を聞き取ることなど期待できないことは明らかであった。そこで、私としては、自分が人間としてはるかに未熟であることを前提とした上で、検事として法と証拠のみを武器に、専らT氏の良心に訴えるほかはないと覚悟を固めた。
 
しかしながら、T氏は、そのような私の足許を見ていたのであろう。逮捕後の弁解録取に続く身上経歴に関する取調べにおいても、調書を作成する際に、用語の些細な点についても一々異議を申し立てたため、その都度書き直しを余儀なくされ、肝心の事実関係に関する取調べに入ることにすら難渋したのである。
 
このような取調べに転機をもたらすこととなったのは、次のような経緯であった。
 
拘置所の夕食は早く、午後6時ころから取調べを再開することが可能になる。そうしたある日、私は拘置所の取調べ室の窓から夕焼けの空にシルエットとして浮かび上がる富士を眺めながら、T氏が係官に連れられて取調べ室に来るのを待っていた。東京拘置所は、その後建て替えられ現在は壮大な十字型の建物になっているが、当時は低層の建物が軒を並べるような構造で、取調べ室はそのうちの一棟の最上階である5階に一列に配置されていた。そして、その窓からは、鉄格子越しに西の空を望むことができたのである。
 
その日の夕空が息を吞むように美しかったため、私は、程なく連れてこられたT氏に対し、思わず「Tさん、夕焼けがきれいですよ。富士山も見える。」と声をかけた。すると、T氏も、私と並んで立ち、夕焼けの空を眺めたのである。しばらくそのようにしてから、私がふとT氏の方を見ると、T氏の頬を涙が伝っていた。その時、T氏が何を考えていたのか、私には分からない。しかし、美しい夕空が、それまで頑なであったT氏の心境に何らかの影響を与えたのではないかと思う。
 
その後、T氏は徐々に心を開き、事実関係について少しずつ供述するようになっていった。そして、取調べの中で、「私はどこで間違えてしまったのでしょうか。」などと脱税を悔いるような発言もするようになっていった。私も、早く亡くした父がT氏と同年生まれであったことから、雑談の際には、そうした話をし、休日にはT氏が出身地に建てた美術館を訪問してその感想をT氏に伝えるなどして、次第にお互いの気持ちが通じるようになったように思う。
 
T氏は所得税法違反の罪で起訴された。T氏の脱税額は史上最大のものであったから、実刑判決が予想されたが、T氏は公判でも一切争わなかった。そして、実刑判決が一審で確定し、収監される直前に、T氏が「務めてきます。もし無事に帰ってきましたら、笑ってお会いできる日を楽しみにしています。」という手紙に添えて送ってきたのが、冒頭に述べた湯呑である。T氏は、自宅に陶芸のための窯を有しており、そこで作った湯呑に自筆で「黄昏迫るころ夕陽は美し」と書き入れてあった。それが拘置所の窓から二人で眺めたあの情景を指していることは、疑う余地はない。私は、御礼の返事に「元気に戻ってきてください。」と記した。
 
この話には、後日談がある。
 
数年後、T氏から、法務省にいた私のところへ電話がかかってきた。「先日出所したので、一席設けたい。」というのである。私は、「自分が取調べを担当した人にご馳走になるわけにはいきません。私の方で出所祝いをしましょう。」と答えた。そして、役所の隣にある法曹会館の一室にT氏を招き、昼食を共にした。要らぬ疑惑を招かないよう、特捜部時代の立会い事務官であるE氏にも同席してもらい、無論飲食代は私が支払った。
 
T氏の刑務所内における体験談は、図書係を命じられたことなど、巧みなユーモアも織りまぜ、実に興味深いものであった。T氏は、その一方で、「刑務官の待遇は大幅な改善を要する。」「これからは世のため人のために生きます。」などと熱弁を振るい、話は大いに盛り上がった。誇り高い経営者であったT氏にとって功成り名遂げたその晩年に服役したことはさぞ苦痛で屈辱であったに相違ない。けれども、T氏はそのような思いはおくびにも出さず、刑務所でも人生について大いに学ばせてもらったと述べており、達観した人間の美しさ清々しさを感じずにはいられなかった。私は、検事と元被疑者という立場を超えて、T氏から人生の在り方を教えられたような気がする。
 
その後も、T氏からは、折に触れ著書や独房内で描いたという画集等を送られ、出所して数年後服役した刑務所を再訪したことを記した手紙等も受け取った。そして、「是非また人生を語り合いたい。」などと何回も手紙で再会を求められた。しかし、私は当時仕事で多忙を極めていたため、答を先延ばしにしているうち、T氏は亡くなってしまったのである。なぜ僅かな時間をやりくりして会えなかったのか、T氏が辛い経験を経て晩年何を考えていたのか聞かなかったことが今でも悔やまれてならない。
 
T氏の取調べを担当してから30年余りが経ち、私も当時のT氏と同じ年齢に達した。T氏から贈られた湯呑は、その後ずっと私の机の上に置き、今でも宝物のように大切にしている。そこに記された「黄昏迫るころ夕陽美し」は、老境に入ったT氏が、罪を認め、様々な煩悩を捨てて、澄み切った境地に達したその思いを込めたものだということをしみじみと理解できるようになった。波乱に満ちたT氏の人生には比すべきもないが、私もまた、そのような心境に達したいものだと思う。
 
(追記)
取調べや供述調書に過度に依存したかつての捜査構造は改める必要がある。そうした観点から、私が退官した年の2016年、日本型司法取引導入、通信傍受拡大等証拠収集手段の多様化や、一定の被疑者の取調べを録音録画することの義務付け等を内容とする刑事訴訟法の改正が行われた。したがって、上に述べた取調べのエピソードは、今となっては古い時代のできごととなってしまった。しかし、司法も人間の営みである以上、どの時代においても、その根底には、人間性や人間としての思いが横たわっているように思うのである。
 

著者等

顧問/コンサルタント

大野 恒太郎 Kotaro Ohno

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