[コラム] 「黄昏迫るころ夕陽は美し#21 大阪地検刑事部」:大野恒太郎弁護士(顧問)
大阪地検刑事部
-私の第一線検事時代-
私は、任官11年目から12年目に相当する1987(昭和62)年から89(平成元)年にかけての2年間、大阪地検刑事部に勤務した。多種多様な事件を担当することとなり、潰れずに一日一日を乗り切るのが精一杯のような2年間であった。
しかし、後から振り返って見ると、その間、合計9件の死刑・無期懲役求刑事件(下記1及び3の事件を含む)をはじめ、我が国初となる電子計算機使用詐欺事件(1987年6月22日施行の改正刑法による)を起訴するなど極めて充実した第一線検事生活であり、これに続く東京地検特捜部の時代とは別の意味において私の検事人生の一つのハイライトであったように思う。それは、何と言っても、逢坂貞夫刑事部長(当時。その後大阪高検検事長)という実務経験豊富で卓越した上司の指導を受け、献身的で実力のある立会事務官の福岡幹夫氏(その後大阪区検上席副検事)に支えられたことが大きい。
私が大阪地検に勤務した当時の大阪法務合同庁舎
(西天満所在。2001年に中之島合同庁舎に移転)
もとより今から40年近くも前の昭和最後の時代であるから、例えば、供述調書はまだ手書きによる縦書であり、ワープロも世に出たばかりで、個人的に購入して試しに使って見るような状況で、今日とは大きく事情を異にしている。それでも当時担当した事案の中には、今日にも通じるようなケースも含まれていたように思う。
そこで、本稿においては、①被害者の思いに寄り添うことの大切さを改めて認識させられた事件、②新任検事当時の無罪事件(コラム#4「ある無罪事件」参照)で学んだ教訓を活かし、被疑者の嫌疑を晴らす方向の捜査を行った事件、③現場引き当たりにおける被疑者の言動を録音録画によって証拠化した事件、④国際捜査共助の枠組みによって処理した事件を採り上げ、最後に⑤当時の大阪における警察と検察の役割分担に対する私なりの理解と評価について述べることとしたい。
なお、当時の書類は既にほとんど手元に残っていないため、以下の記述は日記の断片的な記載や記憶に基づくものであって、細部において多少事実と相違する点があり得ることを予めお断りしておく。
1 被害者とともに泣く
私が大阪地検に赴任して最初に担当した大きな事件は、老齢の助産婦が押し込み強盗に殺害され、その遺体が河川敷に埋められた強盗殺人事件であった。被疑者の自白によって遺体が発掘されたこともあり、犯人性に大きな問題はなかったが、私が今でも記憶しているのは、被害者の娘からの事情聴取である。被害者は、結婚することなく助産婦をしながら一人娘を育て上げ、娘は既に独立して家庭を有していた。そこで、私は彼女の被害感情を確かめるために検察庁に来てもらった。
彼女によれば、若いころ、自分が縁遠いのは母一人子一人の家庭環境のためではないかと思い、母を恨んだことがあったという。そうした彼女の気持ちは母にも伝わったと見え、ある日、母が仕事に出かけた際に、彼女に宛てて手紙を書き置きしていった。彼女はその手紙を地検に持参してきたのである。そこには、大要「あなたがなかなか結婚できないのは、結婚せずにあなたを生んだ私のせいです。本当にごめんなさい。でも、あなたは世界で一番の娘です。だから、今にきっと良い人に巡り会えると信じています。」などと書かれていた。彼女は、この手紙を読んで、母がそのような気持ちを持ちながら女手一つで苦労を重ねて自分を育ててくれたことを知り、母を恨んだ自分の心の狭さを悔い、母に感謝するようになったという。
その後、彼女は、母の手紙に書かれている通り、良き伴侶や子を得ることができ、「これからは母に楽をしてもらおうと思っていた矢先に母は殺されたのです。」と涙ながらに訴えた。彼女の悲嘆が痛いほど感じられ、私も立会事務官も思わずもらい泣きをした。
「被害者とともに泣く」というのは、当時検事総長をしていた伊藤栄樹氏が掲げた検察のモットーの一つである。この事件において、私達はまさに被害者遺族とともに泣き、被害者側のそのような思いを正しく裁判所に伝え、裁判の結果に反映させるのが検察の役割であることを改めて認識した。そして、それ以後も、人の命が失われた事件においては、必ず遺族の心情を直接聞き、それを事件の処分を決める際に十分考慮するようにした。
2 シロの捜査
これは、お粗末な銀行強盗未遂の話である。暴力団員2名が賭博の支払いに充てる金を得ようとして玩具の拳銃を持って連続して銀行2カ所を襲った。ところが、どちらも窓口の上のガラスが邪魔になり、カウンターを飛び越えて中に入ることができず、車で逃げる途中交通事故を起こして逮捕されたという事件であった。
この事件で問題になったのは、実行犯が犯行に使った車の所有者の関与である。実行犯2名は、警察に対し、口を揃えて、「車の持ち主のスナック店主も自分達と同様賭博で大敗していたので、自分達が銀行強盗を行うことを承知の上で車を貸してくれ、強盗によって得た金の分け前で負け金を支払うつもりだった。」と供述したため、警察は二人の供述に基づいて店主を強盗未遂の共犯として逮捕した。
ところが、店主は、博打で負けたことや実行犯に車を貸した事実を認めながらも、銀行強盗をするという話は聞いていないと弁解した。こうした場合、被疑者の言い分にも十分耳を傾け、その真否を確かめるために裏付け捜査を行うというのが、私が任官最初に起訴して無罪となった事件から学んだ教訓である。
そこで、更に詳しく店主に事情を聞くと、車を貸すように言われたのは当日朝であり、前日実行犯が店主に強盗の話をしたという時間帯にはゴルフ練習場に行っていたという。早速警察にゴルフ練習場の裏付け捜査をしてもらったところ、受付票から店主の来場が確認された。実行犯2名はなお店主も強盗の計画を知っていたと言い張っていたが、とても店主を起訴できるような証拠状況ではない。私は、実行犯2名を起訴する一方、店主の処分は保留した。
その後程なく、実行犯である暴力団員2名の後輩を別の事件に関して取り調べる機会があった。その際、先の銀行強盗未遂事件についても話を聞くと、後輩は、「実は自分が車を運転して銀行強盗に加わることになっており、数日前銀行の下見もしていたが、当日怖気が付いて行かなかった。」などと供述した。
そこで、この情報に基づき実行犯2名を調べ直したところ、それまで店主の関与を頑強に言い立てていた2名ともあっさり後輩の述べた事実を認めた。そして、彼らによれば、「当日朝、後輩が車を運転して現れないので計画が狂ったが、賭博金の支払日が迫っていたので強盗を決行することにし、博打仲間の店主に目的を告げぬまま車を借りた。ところが、事前に下見した銀行の前には駐車車両があって車を停められず、行き当たりばったりに他の銀行2店を襲ったものの、カウンターの中に入れなかったため失敗、狼狽のあまり交通事故を起こして捕まってしまった。当日肝心な時に来なかった後輩には腹が立ったが、自分達が刑務所に入っている間家族の面倒を見てもらう必要があり、しかも、事前に銀行強盗の下見をしていたことが明らかになれば情状が悪くなると思われたので、後輩の話はしなかった。店主については、当初適当に話をしていたが、自分達の話が元になって逮捕されてしまった後は、引っ込みがつかなくなったため、その関与を言い張る結果になってしまった。」ということであった。
こうした説明により、一見出鱈目に見えたこの銀行強盗未遂事件の真相が明らかになり、店主は不起訴としたのである。
3 録音録画の活用
取調べの録音録画は、周知の通り、近年刑事司法の改革論議の中で大きな論点となっている。これは、私が大阪地検勤務当時に録音録画を捜査で活用した時の話である。
売春婦の用心棒(「しけばり」)が市内の路上で男に刺し殺される事件があった。警察の捜査によれば、売春婦が3週間ほど前に暴力を振って売春代金を踏み倒した男を路上で目撃したので、用心棒に追跡を依頼、用心棒が自転車で男を追跡したところ、逆に刺し殺され、男はそのまま逃走したという。
ところが、その1週間後、隣接県の路上で職務質問を行った警察官を刺し殺して逮捕された男がおり、手口や人相着衣が本件の犯人に似ていたことから、警察がその男の写真を売春婦に見せたところ、犯人に間違いないと言う。
もっとも、目撃供述は時として正確さを欠く場合があり、捜査官の誘導による供述であるとの疑いをかけられることもある。そこで、警察は、警察官に対する殺人事件により起訴された男の身柄の移監を受けた上、改めて目撃者(売春婦)による面通しを実施し、私もその場に立ち会った。目撃者はその男が犯人に相違ないと断言したが、なぜそう断定できるのかについての説明は具体性を欠き、先に行われた写真面割で記憶が刷り込まれた可能性も完全には否定できなかった。そうは言っても、彼女が断言する以上、私は警察がその男を逮捕することを了解した。
男は逮捕当初否認していたが、その後警察の取調べで犯行を自白した。私も男を取り調べたが、自白に至った経緯に問題となる点はなく、自白内容も信用できるように思われた。
しかし、捜査段階で自白をしても公判段階でこれを翻すことはしばしば起こり得る。そして、既に警察で自白した後の被疑者について検察官が別の立場からいくら詳細に取り調べても、警察の調書の「上塗り」であると批判されることもあり、立証上の決め手にはなりにくいように思われた。
そのような中で思い至ったのが、被疑者に現場で指示説明をさせる実況見分を録音録画し、犯人ならではの発言や挙動があればそれを記録することであった。
当日、私は立会事務官と共に警察が実施する実況見分に立ち会った。
被疑者はそれまでの取調べで、自転車に乗った被害者(売春婦の用心棒)に追われ、一旦脇道に駆け込んだと供述していたが、現場ではその脇道がどこだか分からなくなってしまったのである。警察官はそうした被疑者の様子がすべて録音録画されているため気が気ではなくなったものと見え、助け舟を出そうとしたが、それでは被疑者による現場説明の意味がなくなってしまう。私はそのまま様子を見るよう警察官に指示した。
すると、被疑者は、付近を歩き回った上で「やっぱりここです。でも当時この建物はなかったように思います。」などと述べた。実は、分かれ道の脇には事件後実況見分までの間に新しい建物が建てられたため、現場の状況が一変していたのである。そこで、警察官から被疑者に対し「君がここに来たのはいつのことか。」と質問してもらうと、被疑者は、「事件の時に初めて来ました。次は今日です。」と答えた。そして、被疑者はその脇道に走り込んで逃げたが、その道は先でまた元の道と合流し、そこで被害者と鉢合わせをしたため、刺し殺したとのことであった。
こうした被疑者の現場説明の模様は、その一部始終が録音録画に収められ、脇道を特定するに至る状況やこれに関する受け答えは、将来公判で争われた場合、犯人性や自白の任意性を立証する上で有力な証拠になると思われたので、自信をもって起訴することができた。
公判の詳細は承知していないが、事実関係については争われなかったため、実況見分の録音録画は証拠として用いられなかったのではないかと思う。
4 国際捜査共助
1988年5月18日に大阪港に寄港中のソ連船で火災が発生し、乗船していたソ連人11名が死亡し、35名が負傷した。
日本の主権の及ぶ大阪港停泊中の船舶において発生した事件であることから、大阪府警と海上保安監部が現場検証等の捜査を開始し、大阪地検においては私が主任検事に指名された。
しかしながら、ソ連側は、領事館職員を現地に派遣した上、日本側の捜査に難色を示し、船員・乗客らに取調べや供述調書への署名を拒否させた。その一方で、船員・乗客らの大多数を代替船に乗せて一日も早く帰国させ、火災に遭った船舶もソ連側に曳航したいとの意向を示した。
こうしたソ連側の動きに対し、我が国の捜査機関には、日本の捜査権を無視して事実究明を不可能にするものとして憤慨する向きもあり、新聞等でも捜査権をめぐって日ソ両国間に鋭い対立があるとの報道が行われた。
ところで、本件を法律的に見ると、ソ連船舶内の火災事件であることから、旗国主義により船籍国であるソ連の刑法も適用され、実体法上は日ソ両国の刑法が重畳的に適用される場合である。他方、手続法上の捜査権に関しては、大阪港は領海条約に言う内水である上、本件は、その消火や乗員乗客の救助等を我が国当局が行い、事故の規模も極めて大きかった点で、沿岸国の治安に影響を及ぼしたと認められるので、純粋な船舶内犯罪とはいえなかった。したがって、同船舶が大阪港に停泊し、関係者が我が国の領域内にとどまる限り、その船体や関係者に対し国際法上我が国において当然に捜査権を行使し得る事件と解された。
しかしながら、①死傷者は全員ソ連国民、焼損された船舶もソ連船籍であり、想定される被疑者もソ連国民であること、②我が国において適用される罪名は失火罪あるいは過失致死罪(当時いずれも法定刑は20万円以下の罰金)にとどまるのに対し、ソ連ロシア共和国刑法によればより重い拘禁刑によって処罰され得ること、③ソ連側が多数の乗員乗客を代替船で帰国させることには人道上相当の理由があること、④それまでに我が国捜査機関が火災の発生原因を解明した上で被疑者を特定しその身柄を拘束することは実際上不可能であること等を考慮すれば、結局最終的な刑事処罰はソ連側に委ねざるを得ないものと考えられた。
そして、ソ連側も事件を解明するに当たって、船内の検証結果等日本側初動捜査の結果を必要としていることに照らすならば、むしろソ連側から我が国に対し捜査共助要請を行わせ、ソ連側が日本側の収集した証拠を使用して刑事責任を負う者の処罰を行うことが最も適当である。それは、同時に、将来ソ連領海内で日本船舶につき同種の事件が発生した場合には、いわゆる相互主義の原則により、ソ連側の司法的協力を得て日本側が裁判権を行使することを確保する上でも国益にかなうように思われた。
そこで、乗員乗客のソ連帰国が切迫していることに苦慮していた大阪府警等に内々こうした判断を伝えるとともに、法務省刑事局に対しても、捜査共助による処理方針を内報した。
そうした中、火災後4日目の5月22日には大多数の乗員乗客がソ連に向けて出国、火災に遭ったソ連船舶も29日タグボートに曳航されて出港した。府警は海上保安監部との合同で、19日から25日まで船体につき検証を実施し、その結果出火場所の船室を特定したものの、出火原因や刑事責任を問うべき被疑者を特定するには至らなかった。
そして、日本側からの示唆を踏まえ、ソ連大使館からは6月3日我が国外務省に宛てた口上書により検証調書の提供を求める捜査共助要請が行われ、その中で、ソ連側は将来ソ連領海内において日本船舶につき同種の事件が発生して日本側が同様の要請をした場合にはこれに応じる旨の相互主義の保証を行った。
その後、大阪府警が作成した検証調書は、同年11月捜査共助法の規定に従い外務省を経てソ連側に提供された。ソ連側は、日本側から提供された検証調書等を活用し、出火場所の船室の乗客の過失によって本件火災が発生したものと認定、同人に対しては、翌1989年3月強制労働2年間の有罪判決が言い渡され、その結果は日本にも通知された。
本件火災事故は、日ソ両国の実体法が競合的に適用される事件であり、国情を異にするソ連との難しい関係もあったが、この種の国際事件処理のモデルケースとなった。
私は、偶々、大阪地検に赴任する前の1982年から84年にかけて法務省刑事局で捜査共助等を担当し、海上における刑事管轄権についても多少の研究をしていたので、その時に得た知見を活かすことができたものと思う(注)。
5 大阪方式
私が大阪に赴任した際に気付いたのは、捜査における警察と検察の関係が、それまで私が東京地検等で経験したものとかなり異なることであった。それは、当時「大阪方式」と呼ばれていた。
その特徴は、「被疑者勾留後の取調べ等の捜査は概ね7日間程度警察が一次的に行い、その間作成された捜査書類は検察官に一括して追送致される」ことにある。当時は、これに付随して「身柄の送致時、捜査担当警察官が事件を担当する検察官のもとに送致事件記録を持参して事件の概要を説明する。勾留状が発布されると、その警察官が検察官に執行指揮の印を押してもらう際に、その後の捜査について打ち合わせを行う。また、追送致書には警察が勾留中の捜査を踏まえて適切と考える被疑事実と情状意見を改めて整理して記載する」等の方法も採られていた。
東京等ではこうした大阪方式を問題視する意見があった。例えば、「大阪では勾留後も捜査の主体は警察であり、検察は捜査を警察に任せきりにしているのではないか、そのため警察が捜査の主導権を握り、検察官の指揮や指導には応じなくなるのではないか。」などというのである。
しかしながら、私は大阪方式には十分な合理性があると考えた。すなわち、東京等においては、重大事件は別として、警察は検察に送致すれば「一丁上がり」とばかり勾留後の捜査を検察官任せにするケースも少なくない。これに対し、大阪の警察は自ら第一次捜査機関としての責務をより主体的に果たそうとしているので、事件が適切に解明され処理されるように検察官との打ち合わせを密にし、その指示を重視して必要な証拠の収集に努めている。捜査書類の一括追送致はあくまでも正式な手続を意味するもので、重大な事件や事実認定に問題がある事件においては、検察官の求めに応じ、毎日のように捜査書類の写しが届けられていた。
大阪方式の下で検察官に期待されている役割は、「警察で自白しない被疑者を自白させること」ではなく、むしろ事件の法律問題についての解釈、強制捜査着手や事件送致に先立って必要な証拠資料・捜査手順の指示、起訴不起訴の決定や公判立証上必要とされる証拠収集の方法・内容の指示等である。
したがって、警察官と検察官の役割分担は、並列する捜査機関同士の「水平的分業」というよりも、第一次捜査機関である警察と公訴権を有する検察官の役割に応じた「垂直的分業」であると言ってもよいであろう。
もっとも、警察が送致後も熱心に捜査に取り組むあまり、時に行き過ぎた方法による取調べが行われるおそれがないとは言えない。しかし、この点については、検察官が警察捜査のチェックや被疑者供述の任意性信用性の吟味に力点を置くことによってそうした問題の発生を防止すべきである。例えば、当時検察官による被疑者取調べの際には、被疑者は警察から単独で押送されることが多かったが、自白の任意性が問題となり得る事件においては、被疑者の取調べ担当警察官を押送に当たらせないよう指示していた。
私は、大阪地検から転出した後の1990年に大阪方式に関して最高検のヒアリングを受けたが、その際大要以上のような意見を述べた。
大阪方式は、今日も基本的には維持されていると聞いている。
(注)大阪地検に勤務する前の法務省刑事局付時代に書いたものとして、国際捜査共助について「犯罪の国際化とその法律問題」(ジュリスト781号155ページ以下、1983年)等、海上犯罪について「海洋法条約と刑事法」(判例タイムズ515号14ページ以下、1984年)等がある。ただし、海洋法条約が発効したのは、本件火災事件後の1994年である。