[コラム] 「黄昏迫るころ夕陽は美し#17 日韓検察サッカー大会」:大野恒太郎弁護士(顧問)

日韓検察サッカー大会

―その歴史と両国検察の比較―

 お隣の韓国において検察はしばしば国の行方を左右するような大きな役割を果たしてきたことは周知のとおりであるが、本(2025)年9月李在明政権の下で検察庁を廃止する法律が可決されるに至った。

 我が国検察と韓国検察との間にはかなり緊密な関係があり、日韓検察庁親善サッカー大会(以下、「日韓検察サッカー」などと呼ぶ)が1999年以来2023年に至るまで9回にわたって開催されてきた。

 そこで、本稿においては、こうした日韓検察サッカーの歴史を辿るとともに、それを通じて垣間見ることのできた両国検察の比較などについて記すこととしたい。

 

1 日韓検察サッカーの開始

 日韓両国間には常に頻繁な人的往来や深い社会的経済的関係があったが、私が検事に任官した1976年から暫くの間は、1973年に発生した韓国情報機関による金大中拉致事件の影響等もあり、法務省や検察庁としては韓国側とかなり距離を置いていた。

 しかしながら、韓国からはかなり以前から検事出身の法務アタッシェが在京韓国大使館に配置され、毎年慶応大や中央大にも検事が在外研究員として派遣されていた。そして、韓国が政治的経済的に着実に発展を続けるに伴い、両国間に生じる数多くの法的課題を解決するため、日本の検察も1996年初めて検事を韓国の法務検察に在外研究員として派遣し、以後両者の間で双方向的な関係が発展していくのである。

 韓国の法務アタッシェや在外研究員は、しばしば我が国の法務検察職員とパーティー等で交歓し、お互いにそれぞれの国で法の支配のため戦っているという同志意識を育んでいた。

 日韓検察サッカーは、そのような中で、いわば草の根的に生まれた。法務省刑事局等の事務官が来日した韓国の検察事務官と親交を深める中で、2002年サッカー・ワールドカップの日韓共同開催が決まったことなどを背景に、どちらからともなく日韓の検察がサッカー大会を開催すれば、その友好親善関係を一層発展させることができるという話が持ち上がった。こうした構想は、1999年当時刑事局総務課長をしていた私のところに伝えられ、日韓法務検察関係を強化したいという多くの者の期待を受けて、松尾邦弘刑事局長(当時。後に検事総長)の全面的な支持を得ることができたのである。

 一方韓国側においてもこの構想は上層部によって承認され、同年5月松尾刑事局長と韓国法務部検察局長(我が国の法務省刑事局長に相当)との間に日韓検察サッカー大会開催に関する合意が成立した。もとよりこの大会は公の行事ではないので、各自自費で有給休暇を取得して参加することとされた。

 

 日韓検察サッカーの第1回大会は、同年8月に韓国で開催された。

 これには、東京地検を中心に全国検察から集まった検事・事務官の選手をはじめ応援団も合わせると総勢70名が手弁当で韓国に赴いた。総団長は松尾刑事局長であり、応援団の中には選手の家族・友人が多数含まれており、私もその一員に加わった。

 試合前日、選手団は練習、応援団はソウル市内観光の後、夜は、その全員が現代財閥出身で当時大統領候補との呼び声も高かった鄭夢準国際サッカー連盟副会長(国会議員)主催の盛大な晩さん会に招かれた。

 試合当日、大会会場の水原にある法務研修院グラウンドに赴くと、役所の施設とは思えないほど立派な芝生敷きで観客席のある場所であることにまず驚かされた。韓国朴舜用検察総長(韓国における検事総長の呼称)も出席した開会式の後、試合が開始された。日本側の応援団は数十名にとどまったのに対し、韓国側の応援者はそれをはるかに上回る数であった。

 予想すらしていなかったのは、ブラスバンドによる演奏と、検察庁職員であるというチアリーダー達の応援である。チアリーダーは韓国チームの応援だけではなく、日本側応援団が陣取ったスタンドの方にも来て日本側の応援もしてくれた。総じて韓国側は遠路はるばるやってきた日本側に対して親切で気配りに満ちていた。直前まで二代目の在外研究員として韓国法務検察に派遣されていた若手の森本宏刑事局付(当時。現法務事務次官)が韓国側職員に人気があり、あちこちから親しみを込めて「モリモト」「モリモト」などと声を掛けられているのも微笑ましかった。

 

サッカーグラウンドを背景に、日本と韓国のユニフォーム姿の総勢70名ほどの男性が3列に並んでいる記念写真

第1回大会集合写真

 

 試合は熱戦となった。普段は難しい顔をして仕事をしている検事や検察事務官がまるで少年のように夢中になってボールを追う姿に、皆が声を枯らして声援を送った。選手も応援の人達も一体となった高揚感は、スポーツ試合ならではのものであろう。

 事前には、サッカーの盛んな韓国側の有利が伝えられていたが、フタを空けてみると、第一試合が3対2で日本の勝ち、第二試合は1対1の引き分けで、全体として日本側が勝ったのは僥倖と言うべきだったと思う。もっとも、私はチアリーダーの動きに目を奪われ、決勝点を見逃してしまったのは不覚というほかない。そのような試合風景は、日韓検察サッカー大会開催の話を聞きつけた某テレビ局によって収録され、同局のニュースの中で採り上げられた。

 当日夜も検察局長主催の晩さん会で大いに盛り上がり、私達が帰国したのはその翌日であった。

 このように日韓検察サッカー第1回大会は大成功を収め、日韓検察の関係を一層緊密なものにするという目的を果たした。そして、それ以来、日本全国の検察におけるサッカー愛好者は、検事も事務官も日韓サッカー大会への出場を目指して練習に励み、試合や合宿を重ねるようになった。

 

2 その後の日韓検察サッカー

 前述の日韓間の合意において、大会は隔年日韓交互に開催されることとされていた。もっとも検察をめぐる様々な情勢との兼ね合いでその開催が延期される場合があり、第2回目の開催は、3年後の2002年4月となった。この時、私は内閣司法制度改革推進本部に勤務していたので、大会の運営には関与していない。

 試合は、夢の島運動場で開催され、検察官チームも事務官チームも韓国側が勝ち、第1回の雪辱を果たした。

 当夜の打ち上げパーティーは付近のホテルで行われた。韓国における豪華な歓迎宴とは比べるべくもない質素なものであったが、その資金調達のため、当時の法務検察幹部等にいわゆる奉加帳を回してカンパが行われた。このようなカンパは、草の根手作りの大会だからこそ必要とされたものであり、以後日韓検察サッカー大会の都度繰り返される伝統となった。

 

 その後、私は、2009年7月に開催された第5回大会の際に韓国を再訪した。

 当時刑事局長をしていた私は、この大会における日本側の総団長を務めた。私の出発は仕事の関係で試合前日の夜になったが、選手団や応援団の主力メンバーは、その朝日本を出発し、前年に開設されたばかりの大検察庁(日本の最高検に相当)デジタル・フォレンジック・センターを見学するなどしたとのことである。

 

 試合当日は、韓国側韓相大検察局長の車に同乗させてもらい、会場の水原ワールドカップ補助サッカー場に赴いた。ここは2002年開催のFIFAワールドカップ日韓大会のために整備された施設だけのことはあり、流石に立派な会場であった。日本側参加者は70名あまり、韓国側は350名を超え、大検察庁文晟祐次長検事等の幹部が出席した。また、韓国ドラマ「冬のソナタ」で主人公の恋敵の役を演じて日本でも人気のあった韓流スター朴客夏(パク・ヨンハ)氏も応援に駆け付け、日本側応援団との写真撮影に応じていた。

 

演説台に男性が立っている。頭上には「第五回」と記載のある幕が掲げられている。

第5回大会開会式

 

 もちろん第1回大会と同様ブラスバンドやチアリーダーも登場したが、私は、以前の失敗に懲りて、試合から目を離さないようにした。結果は、検察官チームは引き分け、事務官チームは日本の勝ちだった。日本側が全体として勝利を収めたのは、第1回以来のことであった。

 当夜の打ち上げは、検事OBが関係しているという民間会社の研修センターで開催された屋外バーベキュー・パーティーだった。パーティーを盛り上げたのは、何と言っても爆弾酒である。爆弾酒というのは、ビールで満たしたジョッキの中にウイスキーを入れたカットグラスを沈めたもので、一気に飲み干した後、そのことを示すために、ジョッキを揺らして中のカットグラスにカラカラと音をさせるのが正式な作法とされている。日本側総団長である私のところには韓国側の幹部や選手、チアリーダー達が列をなして次々に爆弾酒を注ぎに来た。次第に酔いも回ってきたが、これ以上は飲めないなどと弱音を吐いて、日本側も大したことはないなどと思われたくなかったし、折角高まっている日韓検察の友好ムードに水を差すわけにもいかない。そんなことから、最後のころは本当に必死の思いでジョッキを飲み干し、深夜近くに何とかホテルの部屋に辿り着いたのである。

 

 その次の第6回大会は、2011年春に東京で開催される予定であったが、同年3月の東日本大震災によって延期のやむなきに至った。これに対し、韓国検察サッカー関係者は、「喜びは分かち合えば二倍になり、悲しみは分かち合えば半分になる」という韓国の諺を引用した心温まる励ましの書簡とともに多額の義援金を日本側に送ってきた。このことは日本側関係者をいたく感激させ、一部のメンバーは、韓国側の思いを体現すべく、前回の大会の際に交換した韓国選手のユニフォームを着用して被災地のボランティア活動を行った由である。

 第6回大会が1年遅れで翌2012年4月東京において開催された際、当時被災地である仙台高検の検事長をしていた私はお礼のビデオ・メッセージを送った。

 

 日韓検察サッカーは、その後も継続され、直近では2023年8月、コロナ禍の終息を待って5年ぶりに韓国において第9回の大会が開催された。試合前日には学術交流会も開かれるなど、サッカーを通じて感動体験を共有し、友情を深めることができたと聞いている。

 

3 日韓検察の比較

 ここで日韓検察サッカー等を通じて得た印象等に基づき、日韓検察の比較をしてみたい。

 韓国検察は、法務部とは別に大検察庁(最高検)、高検、地検という組織を有することや、人的には法務部と一体で運用される点において、日本検察と共通している。その一方で、捜査を主宰し、警察に対する指揮権を有するなど、日本の戦前の検察に近い制度を採用しており、この点において、警察を独立の捜査機関と位置付けた戦後の制度の下における日本検察よりも強力な権限を有している。そして、大検察庁に置かれた中央捜査部が、我が国では東京地検特捜部が行うような政界・経済界の捜査・起訴を担当してきた。

 韓国検察は、時々の政権と深く関わり、日本の法務大臣に相当する法務部長官には歴代検事出身者が就任し、政権中枢の要職の多くも検事出身者によって占められている。そのようなことから、検事は韓国社会におけるエリートとされ、優秀な人材が集まっている。

 そして、政権と密接な関係を有するため、政権が交代すると、半ば恒例のように前の大統領やその関係者に関わる犯罪を摘発訴追してきた。これに伴い、前政権と密接に関わった検察幹部は多くが辞任するので若返りが進み、韓国検察幹部の年齢は日本に比して相当若い。また、韓国においては、法律上検察総長の任期は2年と定められているが、その任期を全うするケースはむしろ少数である。1948年以来これまでに検察総長は47名を数え、これは日本において1947年に現行検察制度が発足して以降現在の畝本直美検事総長が33代目であることに比してかなり多い。

 その一方で、韓国検察は、我が国よりも早く取調べの録音録画を導入、事務のデジタル化を推進し、独自の科学捜査研究機関を設けるなど、新制度や新手法への取組みは我が国検察よりもかなり積極的先進的である。

 

 これに対し、日本検察は、戦前「検察ファッショ」などと批判されたことも踏まえ、戦後は、「厳正公平・不偏不党」の標語の下に、時の政権と距離を置き、政治的中立性を確保することに腐心してきた。検察庁法には法務大臣が具体的事件の処分に関し検事総長に対して指揮権を有する旨が規定されているものの、その行使は事実上長く差し控えられてきた。私も、検事総長在任中は、その独立性について無用な誤解を招くこととないよう、法務大臣との面会を年に数回の儀礼的な機会に限っていたほどである。そして、政治的な影響のある事件についても、検察権の行使は韓国に比してかなり謙抑的であり、法と証拠に照らして極めて厳格にその処分を決めているように思われる。

 そうしたことから、日本検察は、韓国検察に比べるならば、総じて地味、良く言えば安定的な印象があるように思う。このような検察の在り方を反映し、検察を退いた後、政界に転じ、あるいは経済界等で活躍する者の数も韓国に比してはるかに少ない。したがって、日本で日韓検察サッカー大会を開催する際にも、大企業や有名スターの応援を受けることなどは思いもよらず、現職幹部やOBにカンパをお願いして回るような状態なのである。国会との関係について、私が第5回大会で訪韓した折、雑談の際に、刑事局長は衆参法務委員会の対応がなかなか大変である旨述べたのに対し、韓国側幹部は、法務委には検事出身者の議員が多いので、それほど心配することはないと述べていた。

 

 以上のように、日韓の検察は、組織の形態面では似かよっているものの、検察権の行使の在り方や政治界・経済界との関係においてはかなり異なっている。

 私はここでいずれの方が良いとか優れているというような意見を述べるつもりはない。どのような制度も、その国の社会や歴史に応じて運用され発展をしていくものだからである。しかし、そうであっても、法の支配の実現という共通の役割を担う検察として、相手の活動を見ることによって、お互いに励まされ、異なった視点からの刺激を受け、参考にすべき点を取り入れていくことは極めて有益である。日韓検察サッカーの底流には、そのような考え方があるように思う。

 韓国側はかねて日本の制度や事件処理について非常に良く研究していたが、日本側としても、韓国が新しい制度や手法に対して積極的かつスピーディーに取り組んでいることなどについて学ぶべき点が多々あると思われる。

 

4 韓国検察の廃止と日韓検察サッカーの行方

 ところで、韓国検察の権限が極めて強大であることや時の政権との関係については、韓国内でもかねて「政治検察」であるなどとする批判があった。そして、2019年から20年にかけて文在寅政権において、「検察改革」の名の下で刑事訴訟法と検察庁法が改正されるなどし、検察の警察に対する指揮権がはく奪され、検察による独自捜査権限が縮小された。また、大統領や国会議員、政府高官の汚職・不正についてはこれを専属管轄で捜査・起訴する高位公職者犯罪捜査処を設置する法律が成立した。

 このように検察の権限を弱めようとする政権下にあって、時の尹錫悦検察総長は、検察出身ではない法務部長官等と鋭く対立した。そして、尹氏は退官後大統領選に出馬、2022年大統領に当選した。なお、その就任式には小池忠太青森地検三席検事(当時。現旭川地検次席検事)が招かれたが、これは同検事が在韓日本大使館法務アタッシェとして尹総長率いる韓国検察との連絡に当たっていたからである。

 

 しかしながら、尹氏は、2024年12月非常戒厳を発動して数時間後にこれを解除、弾劾決議によって大統領の職務を停止された上、2025年内乱罪等で起訴され、憲法裁判所によって罷免を宣告された。

 こうした動きを背景に、同年9月李在明政権の下で、検察庁を廃止し、これに代えて起訴権を有する公訴庁(法務部所属)と捜査権を持つ重大犯罪捜査庁(行政安全部所属)を設置する法律が成立した。同法律は、来(2026)年10月に施行することとされているので、このまま推移すれば、その時韓国検察は1948年創設以来78年の歴史を閉じることになる。もっとも、検察関係者等の中には、この法律が違憲であるとして憲法裁判所に提訴する動きもあるとのことである。

 

 日韓検察サッカーについては、本(2025)年第10回大会が日本で開催されることになっていた。しかし、上記のような韓国の状況にかんがみ、延期されたと聞いている。

 

 日韓検察サッカーの四半世紀にわたる歴史を振り返ると、その間、韓国検察は国の統治制度の中枢にあって常に激しい浮き沈みを重ねてきた。日本検察も、司法制度改革や検察改革を経るなど懸命に歩んできた。一方、この期間における韓国の発展には誠に目覚ましいものがある。第1回大会が開かれた1998年当時、韓国の一人当たりの国民所得は日本の3分の1程度であったのに対し、第9回大会が開催された2023年以降は、円安も手伝って、韓国が日本を上回っている。そして、日韓両国間の関係が必ずしも友好的であったとはいえない時期もあった。

 そのような環境の変化にもかかわらず、日韓検察が一貫してサッカーを通じて交流し、その絆を育んできたことは、他国との間に全くその例を見ない。そして、これは、厳しさを増しつつある国際情勢の下における両国関係の観点からも、また、法の支配の実現という共通の使命を有する両国検察の立場からも、特筆されるべき取組みであったと言って良いであろう。

 これまで日韓検察サッカーが果たしてきた役割に思いを致すと、脈々と続けられてきた草の根的な交流をここで終わらせてしまうことはあまりにも残念である。

 

(追記1)

 2に記載した2009年の第5回大会には余談がある。

 当時韓国検察には駐日大使館法務アタッシェを務めて帰国したばかりの徐範政さんという検事がいた。徐さんは山登りが趣味で、3年間の日本在任中に百名山を41座登っており、私を登山の師匠として遇してくれていた。そのようなことから、私は大会翌日徐さんの案内でソウル近郊の北漢山に登る約束をしており、韓国行きの荷物の中に登山靴を忍ばせていた。

 徐さんは、大会翌日曜日早朝4時30分にホテルにタクシーで迎えに来てくれた。私は前夜の爆弾酒による二日酔いで頭は割れるように痛く、嘔吐や下痢が止まらない。しかし、徐さんとの約束を破るわけにはいかないので、吐き気をこらえ、自らを励まして山に向かった。

 徐さんは爆弾酒の応酬には加わっていなかった上、私の体力を過大評価していたと見え、ものすごい速度で登って行く。それは普段の私のペースよりもはるかに速く、ましてや二日酔いで平地を歩くのもやっとというようなその時の私について行けるはずがない。私は「もう少しゆっくり」と哀願を繰り返し、たまらずに傾斜の緩い巻き道を行こうとすると、「こっち、こっちですよ」と直登ルートを指し示されるなどしながら、ともかくやっとの思いで北漢山の頂(838m)に到達した。そこは胸のすくような花崗岩の岩頭で、快晴の空の下360度の展望に恵まれ、それまでの苦労が一挙に報われる思いがした。

 徐氏さんとはこのように素晴らしい山の思い出を共有し、帰国後も山の情報交換を続けた。2011年退官して弁護士になった徐氏が2014年癌のため夭折されたことは、本当に悲しい。

 

(追記2)

 本エッセーを執筆するに当たっては、石塚悟大阪高検事務局長から当時の部内誌記事等の提供を受けた。同氏は刑事局事務官として日韓検察サッカー大会の創設に中心的な役割を果たし、その後も第9回大会に至るまで選手あるいは事務官チームの監督として日韓検察サッカーの発展に尽力した。

 

 

著者等

顧問/コンサルタント

大野 恒太郎 Kotaro Ohno

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