[コラム] 「民訴法学あれこれ #08 訴えの利益」:高橋宏志(顧問)

訴えの利益

民訴法学あれこれ #08
2025.11.5
 
私は、50年以上、民訴法の研究者として過ごしてきた。その間に、民訴法学もずいぶんと変わったと言うことができ、そのいくつかを綴ってみることとする。老爺の語る今は昔、の物語である。

今回は、訴えの利益を取り上げる。同じく訴訟要件である当事者適格が、紛争解決の必要性・実効性を当事者(訴訟の主体)に着目して判断するものであるのに対して、訴えの利益は訴訟の客体(訴訟の対象)に着目して判断するものとなる。すなわち、裁判所が時間と労力を掛けて解決すべき紛争であるかどうかを見るものである。歴史的に見るならば、訴えの利益は、19世紀半ばに確認の訴えが一般的な訴訟類型として確立したことに付随して浮上した訴訟要件である。確認は、性質上、その対象は無限定である。たとえば、教室設例としてよく採り上げられる自分の飼い猫が死んだことの確認を求める訴えを考えてみよう。飼い主である原告にとっては、飼い猫の死を裁判所によって確認してもらうことは、なにがしかの慰めとなる意味があろう。しかし、多くの訴えを処理しなければならない裁判所、あるいは社会一般から見れば、それは裁判所が扱うべき訴えであろうか。ここから、確認の訴えにおいて訴えを提起するだけの利益が必要とされるに至ったのである。そして、こう考えてみると、事態は確認の訴えほどではないが、給付の訴え、形成の訴えでも同様であることが認識され、三種の訴訟類型すべてに通ずる訴えの利益という概念が確立した。とはいえ、実際上、問題となることが多いのは確認の訴えであり、確認の訴えにおける訴えの利益を、慣行上、確認の利益と称している。その確認の利益判断の要諦は、原告に法的な不安または危険があり、確認判決をすることがその不安や危険の除去に有効適切であるか、ということである。即時確定の利益とも呼ばれる。

確認の利益につき、対照的な判例を2つ取り上げたい。1つは、最判(一小)平成11・1・21民集53巻1号1頁の敷金返還請求権の確認という事件である。原告は訴外Aとの間で建物を賃借し、原告の主張によれば、「保証金」400万円を差し入れ、賃貸借終了時に2割の80万円を償却した320万円を返還することを合意した(裁判所により、この「保証金」は敷金と性質決定された)。その後、AはYに当該建物を譲渡した。新たな賃貸人Yは、賃料増額の調停を申し立て、その際、「保証金」の差し入れを否定したので、Xは320万円の返還請求権の存在確認の訴えを提起したというものである。第1審は、原告のいう返還請求権は内容が具体化していない抽象的な権利にすぎず、紛争は未成熟であるという理由で訴え却下とした。しかし、控訴審は、逆に確認の利益ありとして第1審判決を取消し・差戻しとした。最高裁は、この権利は「条件付きの現在の権利」として存在しており、それを確認すれば原告の不安ないし危険は除去されるから即時確定の利益はあるとして上告を棄却した。控訴審と同じく、確認の利益ありとしたのである。

もう1つは、最判(二小)平成11・6・11判時1685号36頁であり、遺言者生存中に提起された遺言無効確認の訴えである。Y1には親族として養子Xと甥Y2とがおり、Y1は甥Y2に土地建物を遺贈する旨の遺言をした。ところが、Y1は認知症を患っており、家庭裁判所は禁治産宣告(現在の成年後見開始決定)を下している。Xは、遺言者Y1が生存中であるにもかかわらず、Y1とY2を共同被告として遺言無効確認の訴えを提起した。第1審は、訴え却下。しかし、控訴審は、遺言者が遺言を取り消す、または変更する可能性がないことが明白な場合には、生存中であっても、例外的に遺言無効確認を求めることができる、それが紛争の予防のために必要かつ適切だとして、第1審判決取消し、差戻しとした。が、最高裁は、遺言者の死亡前には遺言に効力がなく、受遺者とされた者はなんらかの権利を取得するものではない、これは遺言の取消し・変更の可能性が事実上ない場合でも同様であるとして、原判決破棄・控訴棄却とした。第1審と同じく、訴えの利益を否定したのである。

両者とも判例であり、それぞれの類型において今後は先例として機能していくはずである。しかし、前者の敷金返還請求権の確認は、昔であれば、確認の利益なしとされたのではなかろうか。敷金返還請求権について「条件付きの現在の権利」だという理窟付けはあろうけれども、即物的に見れば、この請求権は不動産を返還したときに現実化するものであり、口頭弁論終結の時点では給付請求ができない。金額も未払い賃料・汚濁清掃料等々を320万円から控除するため不動産返還の後に具体的に確定するのであり、原告は具体的な請求金額が不明のため給付の訴えを提起することができないと見るべきである。そうだからこそ、原告は確認の訴えを提起したのである。また、不動産返還後に給付の訴えを提起することにはなんの問題もない。要するに、訴え提起が早すぎる嫌いがある。従来の裁判所であれば、確認の利益なしとすることも十分にありえたのではなかろうか。にもかかわらず、最高裁が確認の利益を認めたのは、原告の不安に意を用いたからであろう。被告は、敷金の差し入れ自体を否定していた。とすると、原告がこの建物賃借権を譲渡しようとしても、敷金の有無がはっきりしないのであるから、譲受人は現われないか、売値をたたかれるであろう。もっとも、この事件では、譲渡したいという事情は顕われてはいない。顕われているのは、賃料増額であり、賃料の増額の幅に敷金の有無は影響する要素であるのでそれを確認しておくことは原告の立場の安定に資すると考えることができないではない(もっとも、これに対しては、賃料増額訴訟の中で先決問題として処理すれば足りるという反論はあり得る。判決理由中の判断であって既判力は生じないが)。こういった原告の「不安・危険」を見て、最高裁は確認の利益を肯定したということであろう。

では、後者の遺言無効確認の訴えはどうか。この事件でもそうであるが、遺言の内容が関係者に明らかになっていることを前提とする。とすると、どうなるか。原告には大きな遺産が入ってこないことが周知のこととなったとすると、たとえば、銀行は遺産を念頭に置いて原告に貸し付けをするということをしないようになるであろうし、すでに貸し付けをしていたとすれば返済を迫るようになりかねない。銀行借り入れは別としても、遺産を当てにしていた原告の将来の生活設計に支障が生ずることもあろう。原告が他の子供に比べて極端に遺産の割り当てが少ないとなると、原告にはなにか素行上その他で問題があるのではないかと周囲が見ることとなり、原告のいわば社会的信用が毀損されることもあろう。要するに、原告には社会生活を送るに当たって「不安・危険」があるといえるはずである。そうであるにもかかわらず、前者の敷金返還請求権では確認の利益を肯定し、後者の遺言者生存中の遺言無効確認の訴えでは確認の利益を否定したことは、どこか平仄が合っていないように感ぜられる。

結局のところ、訴えの利益は、純粋の法律論や理窟だけでは肯定または否定の具体的結論が出てきにくいところがある。判断の要は、原告の不安・危険であるけれども、そこには幅がある。その幅のどこで切るかの決め手は明確でなく、論者の訴訟観・世界観が入り込む。たとえば、私は、遺言者生存中の遺言無効確認の訴えでの確認の利益否定は、遺言変更が医学的にあり得ないとはいえ、遺言者が生存中であるにもかかわらず遺言が有効か無効か、遺言者に遺言能力があったかどうかを親族間や関係者間で争うことへの倫理的嫌悪感があるのではないかと論じたことがある。しかし、倫理的嫌悪感は、判決理由の中では語りにくい。判決理由は、裁判官が結論に至った判断過程を忠実に再現するものではなく、判決の結論を正当化するロジックを語るものであるとよく言われるが、確認の利益に関する判例の理由付けはまさにその代表例である。子の死亡後に親が親子関係確認の訴えを提起した事案で先例を変更して確認の利益を肯定した最判(大)昭和45・7・15民集24巻7号861頁も、判決理由では、親子の身分関係は人としての基本だとするのを正面に掲げ、その法律効果の争いについては戸籍訂正に言及するのみであるが、学説では軍人恩給をめぐる争いが真の判断理由だとするものが多い。前述の敷金返還請求権の確認の判決理由は、現在の権利であることを前面に出すものであり、原告の不安・危険にも触れてはいるが、不安・危険の内容についてはなんら語るところがない。遺言者生存中の遺言無効確認の判例は、遺言によっては権利は生じていないという建前論で押し通すだけである。うがって考えれば、遺言者生存中には確認の利益を否定しても、早晩、遠くない日に遺言が効力を生じ確認の利益が肯定されると踏んでいるのかもしれない。さらに、本案判決をする必要性・有効性にも濃淡があるため、裁判所のキャパシティに余力があれば相対的に薄い必要性・有効性のときも確認の利益を肯定し本案判決をするという機微もあるかもしれず、その裁判所のキャパシティというものも、明快には論じがたい。

るる述べてきたが、理窟だけでは処理できないとすると、研究者にとって確認の利益は難問である。判決理由が正当化のロジックであり、真の判断理由は隠れているとなると、何が判断の決め手となったかについて論者毎に推測するしかなく、食い違いが生ずることになりかねない。そこに、訴訟観・世界観が入り込むとなると、神々の争いともなろう。判例や裁判実務も、内在的に整合が取れているか疑義なしとしない。先に見た2つの判例も、第1審と控訴審とで判断が異なっている。最高裁も、第一小法廷と第二小法廷で、裁判官が異なることの影響があるかもしれない(私は、個別裁判官に着目したこういう「法社会学」(?)的な観点は法解釈学では重視すべきでないという立場であるのだが)。以上、確認の利益につき研究者としての嘆きと悩みを吐露したけれども、しかし、逆に、翻って考えるならば、理窟だけでは処理できない難問だからこそ、研究のしがいがあるし、みずからが考えるところを示して議論を整理していくことこそ研究者の役割だと言うこともできる。学者であれば、この道を歩むのが矜恃であり夢であるというべきではあるまいか。大いなる批判の精神である(批判とは、非難するということではなく、ものごとを正しく見極めるということである)。判決文の正当化のロジックに引きずられ、現在の権利・法律関係か否か等々を汲々として論ずる研究者とは、微力ながら、違う道を歩みたい。私は、先の2つの最高裁判例のいずれに対しても懐疑的である。
 
 

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顧問/コンサルタント

高橋 宏志 Hiroshi Takahashi

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