[コラム] 「民訴法学あれこれ #05 当事者の確定」:高橋宏志(顧問)

当事者の確定

民訴法学あれこれ #05
2023.12.15
 
私は、50年間、民訴法の研究者として過ごしてきた。その間に、民訴法学もずいぶんと変わったと言うことができ、そのいくつかを綴ってみることとする。今は昔、の物語である。
 
今回は、当事者の確定を採り上げる。当事者の確定とは、ある訴訟において当事者が誰であるかを裁判所が確定することをいう。無論、大多数の訴訟では当事者は自明であり、当事者の確定が問題となることはない。しかし、限界事例では問題となることがあり、その典型は他人の名で訴訟をする氏名冒用訴訟と人が死んだことを知らずに提起される死者名義訴訟であり、それらを念頭に置いて議論されてきた。古くからドイツでも議論され、基準として意思説がまず上げられる。誰を当事者として訴訟をするかは処分権主義の観点からも原告の意思による、という説である。当事者として行動した者が当事者であるとする行動説も唱えられた。しかし、意思説では、原告がだれであるかが原告の意思で決まるということになり、循環論法となってしまう。つまり、原告の確定には役立たない。また、被告に関しても、夫が妻を相手に離婚訴訟を提起する際、裁判離婚の国では時折あるようだが、意を通じた第三者を妻だとして訴状の受領をはじめとして被告らしく振る舞わせる氏名冒用訴訟において、原告の意思は被告をだれだとするのであろうか。法律的に意味のあるのは妻を被告とすることであるから、原告の意思は妻を被告としていたと考えることもできる。しかし、原告たる夫の現実の意図は第三者を被告として振る舞わせたのであるから、第三者を被告とする意思であったと考えることもできる。意思も決め手となりにくいのである。行動説では、たとえば原告として行動するとは、どういうことか。訴状を裁判所に提出することは、訴訟代理人によってすることもでき事務員にさせることもできる。準備書面を提出するのも、同様であり、なにをもって当事者として行動したかは疑義をはらむ可能性がある。そこで、訴状に当事者としてその名を記載された者が当事者であるとする表示説が唱えられ、この表示説がわが国でも戦後には通説となった。表示説は、基準として明確性を誇ることができるのである。
 
しかしながら、わが国の判例は、必ずしも表示説では説明できないことも多い。たとえば、氏名冒用訴訟で、冒用された者が自己の名が記載された判決があるのは支障があるとして再審を申立てという事例で、被冒用者は当事者ではないから再審を提起するまでもないとしたものがある。表示説では、当事者として訴状に名が出ているのは被冒用者であるから、被冒用者が当事者となり再審を提起できるとなるはずであるのに、そうしていない。
 
学説では、通説は表示説であったが、昭和40年、50年頃から当事者の確定とはどういう作業かの掘り下げが始まった。当事者の確定といっても、裁判所に訴状が提出された直後の被告に送達をする段階もあれば、訴訟の途中で、ある者を当事者尋問の対象とすべきか証人尋問の対象とすべきかが問題となることもあり、判決が確定した後で強制執行をしたり再審を提起したりするという段階もある。それら色々な局面で、確定に用いる資料はなにを利用することができるのか、利用してよいのかは異なってくる可能性がある。これらが自覚されるようになった後、学説は一方では、当事者の確定とは訴訟の初めから終わりまでを通じて起こる現象であり、用いてよい資料は変化するが基準は一貫しているべきだとする立場と、他方では、当事者の確定とは訴訟の最初の段階だけの問題であり、訴訟が開始された後は任意的当事者の変更、判決効の人的範囲などの他の問題として処理されるべきだという立場とが現われた。
 
そして、この両者をいわば止揚する学説として、新堂幸司教授の二重規範説(または規範分類説とも呼ばれる)が登場した。当事者の確定とされていた問題は、これから訴訟を始める段階で誰を当事者として扱うべきかの行為規範の側面と、訴訟が終わった後に回顧的に誰が当事者であったを確定する評価規範の側面とがある。行為規範としては基準の明確性から表示説が適切であり、評価規範としては現実の行動その他をも視野にいれ、手続保障のあった者で判決の名宛人とするのが適切な者を当事者と扱うべきだとするにいたったのである。判例も、新堂説からはうまく説明できる。というよりも、判例の裏にある考え方を表に出して理論化したのが新堂説だというべきかもしれない。
 
私としては、この新堂説(二重規範説)によって当事者の確定の問題は決着を見たと考えている。しかし、なぜか、新堂説は通説はおろか多数説にもなっていない。私は、これが不思議でならない。他の問題では、私にとって反対説でも、その論拠のいくつかは理解できることが多い。しかし、ここでは、二重規範説に反対する説の論拠がよく分からないのである。
 
それはそれとして、当事者の確定の問題は、法律概念について考えさせるものがある。当事者の確定は、当事者が誰であるかを裁判所が確定する作業だという定義に変わりはない。しかし、かつては、それは局面と資料の差を意識せずに漠然と訴訟のどの段階でも同じものだと考えられていた。しかし、その後、当事者の確定とは、訴状の段階の作業だけだと外延を大幅に縮小する説が出来した。が、再び、当事者の確定は、訴訟のどの段階でも起こりうることであると考えてよいのだが、扱う資料に差異があり基準(規範)も異なるものだとする説が登場するに至っている。訴訟の動態的発展的性格を正面から捉えた思考に深化したのである。学者の論争は、ときに、かみ合っていないことがある。その一因には、同じ用語でも論者によって違った内容を考えていることがあるかもしれない。怖ろしい、とまでは言わないけれども、自覚しておくべきことであろう。
 

著書等

顧問/コンサルタント

高橋 宏志 Hiroshi Takahashi

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