[コラム] 「民訴法学あれこれ #02 訴訟行為」:高橋宏志(顧問)

訴訟行為

民訴法学あれこれ #02

2022.2.21

 

私は、50年、民訴法の研究者として過ごしてきた。その間に、民訴法学もずいぶんと変わったと言うことができ、そのいくつかを綴ってみることとする。今は昔、の物語である。
 

今回は、訴訟行為である。第二次世界大戦で途絶えていたドイツ民訴法学(当時は西ドイツ民訴法学)の動向が戦後に本格的に伝わってきたのは昭和30年(1955年)前後からであろう。その戦後のドイツ民訴法学界で大きく議論されていたのが、訴訟物論と訴訟行為論であった。訴訟行為とは、民法学の法律行為になぞらえて民訴法学が作り出した概念であり、19世紀の民訴法学の成果である。訴訟上の効果が認められる行為のうち、訴訟手続に固有な法的効果をその行為の主要不可欠な本来的効果として生ぜしめているもの、と定義される。19世紀からの民訴法学は、民法学の侍女からの脱却を悲願とし、独自の学問領域として独立することを希求していたため、訴訟行為も法律行為とは別のものだという方向性が徹底された。たとえば、訴訟行為には民法の法律行為の規定は適用にならないという方向が徹底された。その結果、民法の意思表示の瑕疵の規定、代表例として錯誤の規定は適用ないし類推適用がないこととなる。訴訟行為は弁護士が慎重に判断し裁判所もチェックするのだから瑕疵あるものとしての取消、無効はありえない。他方、撤回はありうるというのがそのドグマの最たるものであった。戦後ドイツの民訴法学では、この訴訟行為の体系化や分類が盛んであり、取効的訴訟行為と与効的訴訟行為への分類が確立した。取効的訴訟行為というのは、裁判所に対し特定の裁判を求める行為およびそれを基礎付けるために資料を提供する行為であり、申立て、主張、自白、訴訟上の相殺などがここに属する。与効的訴訟行為というのは、裁判を経ずにそれ自体で効果を生むものであり、訴え取下げ、請求の放棄・認諾などがこれに属する。三ケ月章先生が、この取効的、与効的の区別を日本でも強く唱道されたが、しかし、三ケ月先生の力をもってしても、日本ではこの区別は主流とはならなかった。のみならず、訴訟行為として一般化し概念化してことを論ずること自体も、日本では大きな潮流とはならなかった。訴訟行為だから云々という演繹的思考を余り採らなかったのである。日本では、自白なら自白、訴え取下げなら訴え取下げという個々の訴訟行為での要件、効果の分析が大きな流れであった。抽象的一般化、体系化よりも具体的妥当性の追究というのが、日本民訴法学の底に流れる発想だと見てよいであろう。裁判官の観点からも、全ての訴訟行為を通じて、訴訟行為としてはどの程度の表示主義・形式主義で足りるか、という一般論・抽象論を展開することは慎まなければならない。訴え取下げとか、公正証書における執行受諾の文言とか、個々の訴訟行為ごとにきめ細かく検討する必要がある。個々の訴訟行為ごとに多少の違いはあるが、表示主義・形式主義は、一般に考えられているほど強く働くものではない。むしろ、民法の法律行為の解釈とほぼ同様の原理が支配している。このことは、訴訟行為の有効・無効の判断に民法の意思表示規定が大幅に適用されるべきことと、どこかで共通しあっているところがあるのではなかろうか、と論ぜられるに至る(賀集唱判事)。親元のドイツでも、その後は、訴え取下げへの錯誤規定の類推適用等々が肯定され、民法学からの峻別の方向は修正されて現在に至っている。
 

別の例を挙げよう。訴訟上の和解について、かつてはそれが実体法上の和解契約という私法行為なのか、訴訟終了のための訴訟行為なのか、その双方の行為が行なわれるのか(併存説)、1つの行為であるが性質は実体法と訴訟法の2つがあるのか(両性説)、が大きな学問上の争点であった。訴訟行為説では、訴訟上の和解に錯誤無効は認められないこととなる(兼子理論)。併存説であれば、私法行為の面に錯誤のような瑕疵があっても訴訟行為の面には影響はないというのが、論理的な結論であった。しかし、今日では、このような性質論からの演繹は新堂幸司先生によって有用でないと喝破され、昔日の面影はない。併存説も、本来は私法行為と訴訟行為は相互に独立のはずであるが、私法行為に瑕疵があれば訴訟行為にも影響するとして牽連関係を肯定する説が現われ、性質論の有用性は内部から崩れていったと言えるだろう。判例も、訴訟上の和解に錯誤無効を認めている。
 

民事訴訟法学を民法学から独立した学問体系としたいというのが訴訟行為一般論の暗黙の目的であったが、独立という目的が達成された今日、もはや訴訟行為一般論に民訴法学が過度にこだわる必要はなくなったということでもあろう。また、訴え提起、主張、訴えの取下げ、訴訟上の相殺等々では、性質がかなり異なり、これを一括して論ずる訴訟行為一般論が分類記述の学としては意味があっても、解釈論としてはきめが粗すぎるということもあろう。訴訟行為論に、昔日の輝きはない。
 

しかしながら、反転して、どうであろうか。学問として見たとき、体系性・一般論は1つの価値である。また、訴訟行為論は、個別の解釈論にすぐに結びつくものではないものの、実体法と訴訟法をどう関係付けるかという興味深い基礎理論上の問題を提供する。さらに、体系化・一般化が行き過ぎたときは具体的妥当性の追究でバランスを取り、逆に、具体的妥当性がゆきすぎ帰結が区々場当たり的になれば、体系化・一般化でバランスを取るというように、学問は、らせん的に発展するものではなかろうか。日本でも、具体的妥当性の追究だけでは足りないであろう。かくして、訴訟行為論も、以前と同じ形ではないであろうけれども、体系性・一般性の観点から昔の輝きを取り戻す日が来るのかもしれない。そうあるべきかもしれない。生涯にわたって具体的妥当性の追究に偏してきた私(高橋)のつぶやきである。

 

著者等

顧問/コンサルタント

高橋 宏志 Hiroshi Takahashi

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