[コラム] 「民訴法学あれこれ #04 証明責任」:高橋宏志(顧問)

証明責任

民訴法学あれこれ #04

2023.05.09

 

私は、およそ50年間、民訴法の研究者として過ごしてきた。その間に、民訴法学もずいぶんと変わったと言うことができ、そのいくつかを綴ってみることとする。今は昔、の物語である。ただし、研究者の観点からであるので、分かりやすく面白いとは言いがたく、その点、お許しを願いたい。

 

今回は、証明責任を取り上げる。戦後のわが国において、民事訴訟法学説での二大論争が訴訟物論争と証明責任論争であった。訴訟物論争は昭和30年代であるが、証明責任論争は昭和40年代後半に発生した。淵源がドイツでの論争であることは、訴訟物論争と同じである。

 

それまでのわが国の通説(兼子理論)では、証明責任の分配は実体法の構造を基準とするとされ、法律要件分類説と称されていた。これに対して、もっと実質的な考慮を入れ込むべきではないか、たとえば、証明主題の立証の難易、当事者と証拠との距離、証明主題の蓋然性等を考慮に入れるべきではないか、が問われたのである。

 

その前提として、ドイツでの理論状況がある。ドイツでの通説はローゼンベルグ教授の法規説(または規範説)と呼ばれる説であり、わが国の通説の基となっていた。これにドイツでも批判が向けられた。いくつかあるが、3点、採り上げよう。第1は、ローゼンベルグ説の根本にある法規不適用の原則への批判である。法規不適用の原則とは、裁判で適用されるべき実体法は、その要件事実が真偽不明であるときは適用されないとする考え方である。確かに、多くの場合に、要件事実が真偽不明であるときはその実体法は適用されない。しかし、理論的に厳密に考えるならば、実体法の或る要件事実が真偽不明であるとき、その実体法が適用されるのか適用されないのかは、事実が分かっていないのであるから、どちらとも判断できないというべきではないか、と批判された。「契約は、両当事者の合意があり、錯誤がなければ成立する」という実体法規があると想定しよう。合意の存在と錯誤の不存在を要件として契約の成立を肯定するというのが、実体法が果たすべき第一次的役割である。ところで、実際の訴訟では、錯誤の有無が証拠調べを尽くしても真偽不明という場合が生ずる。この場合、裁判官がどうすべきかは、実体法の第一次的役割からは判明しない。それゆえ、これを実体法の第二次的役割と捉えるのではなく、証明責任規範というものが裁判官に指示を与えると考えるのがライポルド教授等の批判説である。錯誤の有無が真偽不明であるとき、契約の成立を認めるのか認めないのかを指示するのが証明責任規範となる。この場合、契約の成立を認めると指示するのであれば、「契約は、両当事者の合意があり、錯誤がなければ成立する」という実体法は「錯誤がなければ」という要件が真偽不明であるにもかかわらず、適用されたということになる。法規不適用の原則は、妥当していない。実際にも、平成29年改正前の民法旧規定415条後段は「債務者の責めに帰すべき事情によって履行することができなくなったとき、債権者は損害の賠償を請求することができる」と規定していたが、通説判例は、債権法における公平から債務者の帰責事情の存在は、債権者(請求する原告)が証明責任を負う事項ではなく、債務者(被告)が証明責任を負う抗弁事項だと解しており、従って、債務者の帰責事情の存在が真偽不明でもこの条文は適用されるとされていた。法規不適用の原則は妥当していない。この法規不適用の原則への批判自体は、抽象的な議論であり、多くの場合、真偽不明のとき、その法規は不適用となるのであるけれども、理論的には法規不適用の原則で硬直的に考えるよりも、証明責任規範を肯定して考える方が優れていると私も考える。

 

第2に、ローゼンベルグ説は、実体法は、それ自体の性質に基づき権利根拠規定、権利障害規定、権利滅却規定に分かれると説いた(権利阻止規定もあるが、権利障害規定の亜種であるので割愛する)。しかし、たとえば「契約は合意があり、かつ、錯誤がなければ成立する」という実体法規範と「契約は合意があれば成立する。但し、錯誤があればその限りではない」とする実体法規範があるとする。この二つが、「実体法規範の性質に基づき」区別されるであろうか。ともに、合意と錯誤を要素としているのであり、事実が自明であることを前提として要件事実を構築する実体法の第一次的役割からすれば、どちらの規範も同じことを言っていることになろう。にもかかわらず、ローゼンベルグ説では、この両者は、実体法自体の性質により区別されるという。前者では、錯誤は権利根拠規定の一部となり、後者では権利障害規定となるとするのである。しかし、それは実体法の性質自体の差によってそうなるのではなく、隠れた操作があってそうなっているのではないか。後者の規定では、錯誤を抗弁としたいという判断が先行し、それを明示するために本文、但書という形式を用いて権利障害規定の体裁を採ったということではないか。抗弁としたいというのは、まさに証明責任規範がそれを指示しているということである。実体法自体の性質によって分かれるというのは、真実から目をそらす思考方法ではないか、と批判された。私も、この批判は筋が通っていると考える。

 

第3に、ローゼンベルグ説は、証明責任は実体法自体に即して分配すべきことを強調した。裏から言えば、個々の裁判官が、個々の事案に応じて、それぞれの正義で決定することを厳しく禁じたのである。個々の裁判官に任せたのでは、証明責任の所在は、ばらばらになり収拾が付かなくなるとしたのである。ここにおいて、ローゼンベルグ説は、立法者の判断を絶対視するものということができる。すなわち、ローゼンベルグ説でも、証明責任の所在は種々の考察を加えて熟慮して判断されるべきものであることは認めた上で、しかし、立法者の判断を優先すべきだとし、立法者がその判断を実体法の法規に、たとえば本文、但書のような形式で明示しているのであるから、裁判官はそれに従えとしていることになる。ローゼンベルグ説も、証明責任の所在は種々の考慮に基づくことを前提としていたことは見落とされていた点であるが、ともあれ、立法者の判断も、時代の変化や事案の多様性からして、絶対視するのは却って危険ではなかろうか。この点、わが国では、ローゼンベルグ説には盲従せず、通説(兼子理論)も、実質的考慮を入れて、証明責任の所在を考察していたのである。実体法の条文作成において、ドイツの立法者とは異なり、わが国の立法者は、条文の分りやすさを優先させ証明責任の所在を重視していなかったという事情もある。先の民法旧規定415条後段がそのよい例である。

 

さて、それでは、この論争の結果は、どうなったか。昭和40年代後半からの批判は、実質的考慮を入れることを強調したが、現在では、実体法の趣旨で考えるのが基本であり、立証の難易、証拠との距離、蓋然性等は強調するのではなく副次的に考慮するという考え方が主流となった。訴訟物論争と同じく、華々しい論争の結果は、両説の違いの尖鋭化よりも、両説の近さの許容へと向かったと総括することができる。つわものどもが夢の跡、ということであろうか。

 

以上から思うことがある。それは、民訴学者はドイツと日本の学説は同じだと無意識に考えていたが、実はそうではなかったということである。これは、当時若かった私にとって、ショッキングな事実であった。わが国の民訴理論は、ドイツ学説からの輸入法学として出発した。そのため、無意識のうちに、ドイツの通説とわが国の通説は、ほぼ同じと思い込んでいたのであるけれども、案外そうではないということである。原理原則に忠実に裁判官毎の実質的考慮を厳禁するドイツと、実質的考慮を容れて柔軟に対処してきた兼子理論の違いがある。これは民訴法に限らず、わが国の法律学全体の特色なのかもしれない。ドイツと日本は同じだと思い込むと、落とし穴に落ちるということである。そもそも、地裁以上では弁護士強制を採るドイツと、そうでない日本の民事訴訟が同じものではありえないことは三ケ月章先生が常日頃言われていたことである。

 

さらに、法科大学院の学生のみならず学者の一部が現在使用している「修正された法律要件分類説」という言葉には違和感を禁じ得ない。これは、実質的な考慮を入れるので修正はされるものの法律要件分類説の骨格は維持しているということであろう。ということは、法規不適用の原則を認め、証明責任規範を否定し、実体法自体の性質により権利根拠、障害、滅却の区別がなされることを承認するということであろう。しかしながら、実体法自体の性質により自動的に、ある規定が権利障害となり従って抗弁となるというのは倒錯した論法であり、抗弁としたいという判断が先行し、その結果、分類するとすれば権利障害となるというのが真の姿である。実態としては証明責任規範と同じことをしているといってよい。それを「修正された」ものの「法律要件分類説」だと呼ぶのは、用語によって真の姿を隠蔽することになり、学問として生産的ではない。勇気をもって、王様は裸だと言うべきではなかろうか。あるいは、通説への批判の真意を理解できていないのであろうか。以上の一部学説は、寒心に堪えない。

 

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高橋 宏志 Hiroshi Takahashi

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