[コラム] 「知っておきたい「ビジネスと人権」#32「東南アジアの「ビジネスと人権」の現在地」:入江克典弁護士(パートナー)
東南アジアの「ビジネスと人権」の現在地
知っておきたい「ビジネスと人権」 #32
2026.9.24
本連載では以前(第12 回)、東南アジアにおける「ビジネスと人権」の動向として、国別行動計画(NAP)や責任ある企業行動に関する政策の整備が進んでいることを紹介しました。
アジアで初めてNAP を策定したタイは、その後、第2 次NAP(2023 ~ 2027 年)の段階に入り、強制労働、人身取引などへの対応が引き続き重要な課題とされています。2023 年に首相決定によりNAP を公表したベトナムは、①投資、②労働、③脆弱な集団の権利保護、④環境、⑤消費者の権利保護の5 つを優先項目として掲げています。インドネシアでは、2023 年に大統領令によってNAPに相当する「国家戦略」を策定し、企業が自ら人権リスクを評価するための「PRISMA」と呼ばれるモジュールも導入されてきました。
前回、東南アジアを取り上げてから約2 年、欧州のような人権デューデリジェンス(DD)規制が急速に広がっているわけではありませんが、状況はさらに変化しています。東南アジア各国の産業構造や社会状況を反映し、移住労働者、先住民族、土地、資源開発、強制労働産品の貿易など、それぞれの課題が表面化しています。
◇マレーシア
マレーシアでは2025 年8 月、同国初のNAP(2025 ~ 2030 年)が策定されました。マレーシアNAP は、①ガバナンス、②労働、③環境の3 つを優先分野とし、なかでも労働については、強制労働の撤廃、公正な採用、賃金、差別禁止、結社の自由、団体交渉などが取り上げられています。この背景には、マレーシア経済を支える多数の移住労働者の存在があります。製造業、電気・電子産業、ゴム手袋産業、プランテーションなどでは、ネパール、バングラデシュ、インドネシア、ミャンマーなどから多くの労働者を受け入れ、その採用過程では、高額な手数料を支払うために労働者が借金を負い、容易に仕事を辞められなくなることなどが問題とされてきました。このような産業競争力を支えてきた移住労働者の雇用のあり方そのものが、マレーシアのNAP として反映されています。
◇フィリピン
フィリピンでは2025 年7 月、NAP 策定に向けた政府横断的なプロセスが始まり、最初のワークショップでは、「先住民族と祖先伝来の土地(ancestral domains)の保護」が取り上げられました。フィリピンでは、先住民族権利法(Indigenous Peoples' Rights Act)によって、先住民族には、祖先伝来の領域における天然資源の利用等について利益を享受する権利や、その領域に影響する政府・民間のプロジェクトについて十分な情報に基づいて参加する権利などが認められています。その一方、フィリピンの2024~2028 年人権計画は、祖先伝来の土地への侵入や不法占拠、土地権利の確定の遅れなどを課題として挙げ、企業活動が先住民族の周縁化につながる場合があることも明記されています。以上のような背景に基づき、フィリピンにおいては「ビジネスと人権」が先住民族と土地の問題として現れています。
ラオスでは、国連の社会権規約委員会(Committee on Economic, Social and Cultural Rights)がNAP の早期策定に加えて、企業に人権DD を義務付ける包括的な法制度を導入するよう勧告しています。この中で、大規模な開発、投資、天然資源開発について、影響を受ける地域社会と協議しながら、独立した人権・環境影響評価を行うことまで求めています。水力発電や鉱山開発を経済発展の重要な柱としているラオスにおいては、資源開発と地域住民の問題が先鋭化しています。
◇シンガポール
シンガポールでは、NAP は策定されていませんが、世界有数の貿易・物流ハブであることから、前回紹介した米国の強制労働産品に対する通商規制に関連します。米国通商代表部(USTR)は2026年6 月、シンガポールについて強制労働産品の輸入禁止制度が存在しないと判断し、7 月にはシンガポールから米国への輸出品の一部に12.5%の追加関税を課す措置を決定しました。シンガポールにおいては、貿易・物流ハブとしてサプライチェーン上の人権リスクの把握が大きな問題となっています。
以上のとおり東南アジア各国を見ると、特徴的な問題とその現れ方は大きく異なります。これは、人権DD に際しても、各国においてどのような産業があり、誰が働き、どこから原材料が来て、事業によって誰が影響を受けるのかといった事情によって、注目すべき人権リスクが変わることを示唆するものといえます。
※時事速報シンガポール、マレーシア、ベトナム、タイ、インドネシア、欧州、米国の各版2026年9月3日号より転載