[コラム] 「知っておきたい「ビジネスと人権」#30「アメリカで「ビジネスと人権」に何が起きているのか」:入江克典弁護士(パートナー)
アメリカで「ビジネスと人権」に何が起きているのか
知っておきたい「ビジネスと人権」 #30
2026.7.22
前回までに説明しました欧州連合(EU)における人権に対する企業責任の強化の一方で、近時のアメリカでは、これとは異なる方向性を示すようなDEI(Diversity, Equity and Inclusion)後退の動きがみられます。
2025 年1 月、トランプ政権は「違法な差別の廃止と能力に基づく機会への回帰(Ending Illegal Discrimination and Restoring Merit-Based Opportunity)」と題する大統領令を発出し、連邦政府契約の文脈においてDEI 施策の見直しを打ち出しました。さらに2026 年3 月には、「連邦政府請負業者によるDEI差別への対処(Addressing DEI Discrimination by Federal Contractors)」と題する新たな大統領令を発出し、反DEI 政策を一段と具体化しました。2026 年3 月大統領令は、一部のDEI 施策が差別是正や機会均等の実現ではなく、むしろ特定属性への優遇や逆差別につながっているというアメリカで広がる問題意識を背景としています。特に採用、昇進、育成プログラム等において、人種や民族を基準とした差別的取り扱いを問題視しており、例えば、ウォルマートやボーイングといった大手企業が、人種や性別の割合に関する採用・昇進目標を撤回しています。
2026 年3 月大統領令は、連邦不正請求防止法(False Claims Act:FCA)の観点から、連邦政府の請負業者やその下請業者に対して「人種差別的なDEI 活動」を行わない旨の契約条項の導入を求めるとともに、その遵守がFCA における政府の支払い判断にとって重要な事項(material)であることを認識させる仕組みを採用しています。違反が認定された場合には、契約解除や政府調達からの排除だけでなく、FCA に基づく摘発や訴追の対象となる可能性があります。実際、米国司法省は2026 年4 月、IBM が違法なDEI 施策を実施していたとする申し立てに関して、約1,700 万ドルの支払いを内容とする和解を公表しました。
また、企業のウェブサイトやサステナビリティレポートにおけるDEIに関する記載も、大統領令を受け、人種差別的なDEI 活動と評価されないか慎重な検討が求められると指摘されています。これに伴い、S&P500 企業の多くがSEC(米国証券取引委員会)への開示書類からDEI 関連の記載を削除・修正するなど、情報開示を縮小する動きが広がっています。
以上のとおり、グローバル企業は現在、アメリカでは反DEI 政策への対応を求められる一方で、欧州では人権尊重の強化を求められるという二重の圧力に直面しているといえます。日本企業も、アメリカに子会社を保有する場合だけでなく、アメリカ政府の請負業者のサプライチェーンに組み込まれている場合も、2026 年3 月大統領令の影響を間接的に受ける可能性があります。
もっとも、2026 年3 月大統領令をめぐっては、米国19 州とコロンビア特別区の司法長官が、どのようなDEI 施策が許容され、どのような施策が契約違反やFCA 上の責任を生じさせるのかが不明確であり、企業による適法な多様性推進施策の実施を萎縮させるなどとして連邦政府を提訴しており、その有効性や実際の運用については流動的な面があります。
また、トランプ政権下での反DEI 政策は、人権尊重責任そのものを否定するものではありません。今後、企業に求められるのは、DEI を維持するか廃止するかという二者択一ではなく、国際的な人権基準と各国の法規制を踏まえ、自社の人権方針やDEI 施策の運用を改めて点検し、その正当性を説明できる体制を構築することと考えられます。
※時事速報シンガポール、マレーシア、ベトナム、タイ、インドネシア、欧州、米国の各版2026年7月1日号より転載